サンマに何をかけて食べるか問題を考える
日本酒といえば刺身という人もいるが、個人的には焼き魚だ。焼くと身の味が濃くなるし、皮に脂がじゅうじゅう染み出た青魚など、これ以上のあてはない。酒は甘さと酸味のバランスのよい、気仙沼の「蒼天伝」なら最高だろう。
これも意見の違う人がいるだろうが、せっかくの焼き魚に、いきなり冷たい大根おろしを乗せてしまうのは理解できない。焼き立ての魚は熱々のまま食べて、その脂が口に残っているところに酒を流し込むのが理想的だ。
軽く塩をしただけの旬の焼き魚の素の味が、一番のごちそうだと思う。そこに醤油をじゃあじゃあかけてしまったら、ぜんぶ醤油の味になってしまうではないか。
「青き蜜柑」をかける佐藤春夫
ただ、焼き魚に柑橘類を軽くしぼるのは、例外的に乙だと思う。特に秋が深まるころに出回るカボスをサンマに少し垂らすと、一瞬で手をかけた料理のように化けて楽しい。海の魚に、山の恵み。遠くのものが出遭う感じもいい。
佐藤春夫の「秋刀魚の歌」(1922年)にも、「青き蜜柑の酸をしたたらせて」サンマを食べる男が登場する。佐藤はミカンの産地、紀州は新宮の出身である。
さんま、さんま/さんま苦いか塩つぱいか。
この有名な一節だけがひとり歩きしている詩だが、全文を読むと、実は結構つらい内容であることが分かる。例えばこんな箇所がある。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸をくれむと言ふにあらずや。
夫に捨てられようとしている女と、妻に裏切られた男が、食卓を囲んでいる。愛情の薄い父を持った女の娘は、父でもないこの男に、苦いサンマの腸(わた)が食べられないからあげる、と言っているのである。
涙を滴らせるは「いづこの里のならひぞや」
このあたりの叙述は、小田原の谷崎潤一郎宅での実話に基づいているとされる。佐藤は後に、夕食にひとりサンマを食べながらそれを思い出し、秋風よ、あれは夢ではなかったと証してくれ、と不意に涙を落としている。
さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
サンマの上に涙を滴らせて食べるのは、どこの地方の習慣でしたっけね、といった自嘲で詩は締めくくられる。
この詩の背景には、谷崎・佐藤の「細君譲渡事件」がある。谷崎は夫のいる芸者・初子に入れあげて求婚するが、断られて妹の千代を勧められる。谷崎は千代と結婚するが、姉とは違う良妻賢母タイプが気に入らない。
そこで、姉に似たもうひとりの妹、せいに手を出す。せいは『痴人の愛』のモデルになった奔放タイプだ。その様子を知った佐藤は、千代に同情して谷崎邸に通いつめる。ちょうど佐藤も妻の不貞が発覚し、思い悩んでいたころだった。
妻と別れた佐藤は、谷崎から千代を妻として譲り受ける約束をする。せいと結婚したい谷崎としては、妻子の面倒を引き受けてくれる佐藤はありがたかった。
「ひとりが好き」も立派だが
ところが谷崎は、せいから結婚の申し出を拒絶されてしまう。そして、そのショックからか佐藤との約束を反故にし、千代との離婚を取りやめてしまった。怒った佐藤は、谷崎に絶交状を叩きつける。
「秋刀魚の歌」を書いたのはこのころである。谷崎邸で食卓を囲んだ母と子は、幸せに暮らしているだろうか。あのときの男はいま、ひとり夕食でサンマを食べながら涙を流している。彼らにそう伝えてくれ、秋風よ――。そういう詩なのである。
しかしどういうわけか、その後、谷崎と佐藤は和解する。そして谷崎は千代との離婚に同意し、千代は佐藤と再婚を果たす。それを証すために、わざわざ三人連名で「声明文」まで出したというから、昔の人の感覚は分からない。
事態が収拾したのは「秋刀魚の歌」の食卓から、およそ十年後という計算になる。それから佐藤一家――もちろん千代の娘、鮎子も一緒だ――は末永く幸せに暮らした、というハッピーエンドの話ではある。
とはいえ、彼が孤独の食卓で「あはれ/秋風よ/情(こころ)あらば伝えてよ」と絶唱したのは事実で、その寂寥感を想像するとなんともやるせない。
「ひとりを楽しむ」をモットーにするDANRO読者諸氏は、この詩を情けないと思うことだろう。しかし、人を避けて安定したモノとの関係にこだわり、頑なに「ひとりが好き」と言い張るのも立派だが、思うようにならなくても愛しい人をひとり想いながら涙する佐藤のほうが、個人的には人間らしくて好きである。