文学と映画に描かれた、新世代の沖縄(沖縄・東京二拠点日記 26)

故・岡留安則さんに献杯(筆者は左から3番目)
故・岡留安則さんに献杯(筆者は左から3番目)

【2月16日】岡留さんの内々の献杯の会をやる。さきに紹介した福島弘子や岡留さんが親しくしていた面々で、岡留さんと何度か飲んだモツ焼きの「松井」へ。

岡留さんが泥酔してぼくが自宅まで送り届けたことが何度かあったが、その「お詫び」としてめずらしく、岡留さんから「うまいもんを喰おう」と誘ってもらい、誘ったほうが気に入ったのが「松井」だった。

店の主とはぼくは前から知り合いだし、取材をさせてもらったこともある仲なのだが、あまりホルモンを食べたことがなかった岡留さんはいたく気に入っていた。

「ココロ、オドル 満月荘がつなげる3つのストーリー」

そのあと栄町「おとん」に顔を出して、ノンフィクションライターの松永多佳倫さんも合流。もう一軒、安里の「hatch(ハッチ)」へ。

店を経営しているのは元沖縄水産高校野球部のOBの大嶺雄司さんで、『沖縄を変えた男』を書いた松永さんは沖縄の高校野球事情に詳しいので、大嶺さんとも知り合い。数年前にぼくも深夜にかなり酔っぱらい偶然にこの店に入った。深夜まで開いていたからだ。

飲み食いしているうちに、なぜか大嶺さんの料理の腕前と男前ぶりに感謝したくなり、着ていたフード付きトレーナーをいきなり脱いで彼にプレゼントするという奇行に走った。

彼にしてみればただの迷惑な客なのだが、それ以来、知り合いになった。彼は栄町でも「にはち」という居酒屋をやっている。いつも賑やかで、美味い串焼きが喰える。

ぼくはよく、ぶらぶらと久茂地川沿いを一人で散歩する。前島あたりまで歩くと、岡留さんの店が入っていた雑居ビルの近くに出ることがある。あのビルの四階のカウンターに夜9時になると、必ず岡留さんはあらわれた。当時のことが走馬灯のように思い出される。

【2月17日】東京からフリーの編集者・ライターの中沢明子さんがやってきた。これから創刊するウェブサイトでいろいろな人の「本棚」を紹介する企画で、本棚を撮影したいという。

うちの書棚はリノベする際に畳をぜんぶはがしたら、下に分厚い杉の渡し板が敷きつめられており、サイズも厚みもばらばらだったが、それをペイントしてそのまま壁に取り付けたものだ。本棚といっても、好きなやちむん(沖縄の焼き物)や、柳宗理がデザインした秤や皿、ミニカーなんかも好きなものを本といっしょに雑多に並べておいてあるのだが、自分で眺めていて飽きないというのが唯一のコンセプト。

昼飯を牧志の「我部祖我そば」で食べ、そのまま桜坂劇場へ歩いていって「ココロ、オドル 満月荘がつなげる3つのストーリー」を観た。

離島の民宿を舞台にして、ここをいろいろな事情でたずねてくる人々が人生を再生させていく物語だ。ここでも沖縄の「おばあさん」の人間力が遺憾なく発揮される。後味のいいコラムのような映画だった。

ぼくの中では島の共同体の中で生きるしかない住人の鬱積した気持ちと、それでも人生なんとかなるさという価値観がないまぜになった。

この映画に沖縄のお笑い事務所FEC社長の山城智二さんが島に1人しかいない警察官役で出演されているのだが、知り合いということを差し引いても脇役としての存在感がすばらしい。

真藤順丈『宝島』

夜はジュンク堂那覇店で直木賞作家の真藤順丈さんのトークイベント。始まる前に控室でご挨拶をさせていただく。『沖縄アンダーグラウンド』を読んでいてくださり、感想をいただいた。そのうちに対談しましょうということになる。

講演自体は短かったが、「戦果アギャー」のことを書きました、と冒頭に真藤さんが切り出すと、200人ぐらいいた聴衆の一部から歓声と拍手が起きた。高齢の男性たちだった。ぼくもここでは何度もやらせてもらっているが、こんなのを観たときは初めてだ。

直木賞を取る前に真藤さんは同じ場所でトークイベントをやったそうだが、そのときの聴衆は6人ぐらいだったことも話し、笑いをとっていた。直木賞の威力恐るべしだが、「戦果アギャー」はいまも、戦後を生き抜いた沖縄の人たちにとって伝説などではなく、自分たちの物語なのだ。

直木賞作家・真藤順丈さんのトークイベント

真藤さんのトークイベントを聞いたあと、一人で「串豚」にいき、カウンターで美味いモツ串焼きと冬場だけやっているおでんを食べた。主の喜屋武満さんが、ご飯を小鉢にほんのすこしよそってくれて、そこにおでん出汁を注いだ。ちょいとワサビを加えると、うまいのなんの。

「串豚」にて

映画「BORN BORN 墓音。」

夜中、寝ころんでOTV(沖縄テレビ)をつけていたら、話題になっている映画「洗骨」の前段となる短編映画「BORN BORN 墓音。」をやっていたので観た。

じつは「洗骨」は近々観るつもりだったのだが、ガレッジセールのゴリこと照屋年之監督の「死生観」が前面に出ていた。これにも山城智二さんが、島に残って母親のめんどうを見ている、主人公(ゴリさん)の兄役で出ており、これまたすごい存在感。この人、名優だ。

【2月19日】 泉崎にある琉球新報本社で連載「藤井誠二の沖縄ひと物語」の打ち合わせを終えて、表に出ようとすると波平雄太さんとばったり。彼はミュージシャンなのだが、新報の事業部で働き出した。いっしょに昼飯を近くで食った。

ぼくはそのまま、写真家のジャン松元さんと合流して、コザの中の町へ。社会学者の打越正行さんと合流するためだ。連載の第4回目でこれから『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』を出版する彼を取り上げるためだ。

撮影は、中の町のキャバクラなどが入った雑居ビルのゴミが散乱した階段。よくここらあたりで「調査対象」となったヤンキーの若者たちと飲んだそうだ。

それにしても30歳で地元の暴走族の中学生にパシリとして弟子入りして、10年余の「調査」を続けた打越さんの突き抜け方には舌を巻くばかり。インタビューは付近のファストフード店でおこなった。

社会学者の打越正行さん

映画「洗骨」

【2月20日】 新都心の映画館に「洗骨」を見に行った。これにも山城智二さんが出演しているが、いい味を出している。

それにしても圧倒的な存在感だったのは、大島蓉子さんだ。彼女が毅然と発する言葉が、こわれかけた家族や人間関係を引き締めている。そして世の道理を天から指示するように聞こえ、ぼくは彼女のセリフに思わず、ぐっときてしまった。この映画のほんとうのメッセージは彼女が体現しているのではないかと思った。

恥ずかしながら大島さんを知らなかったぼくは沖縄の女優さんかと思い込んでいた。あとで見た友だちの地元の女性も「沖縄のおばあだと思っていた」と言われ、大島さんの凄味をあらためて思った。

夕方からジュンク堂那覇店へ出かけて、『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』が発刊されたばかりのカウンセラーの東畑開人さんと、文化人類学者の砂川秀樹さんのトークイベントを聞いて、おふたりにご挨拶した。東畑さんの本は沖縄での勤務経験をベースにした考察の書だ。砂川さんは沖縄生まれ。東京レズビアン&ゲイパレードの実行委員長を務めたこともある。

終了後、いつもの「すみれ茶屋」に晩飯を食いに出かけると、初見の客が一人で飲んでいた。同い年ぐらいの男性。こっちも一人だから、なんとなしに会話がはじまり、東京の上野から来た客だということがわかった。脱サラして露天の骨董商を始めたばかりだという。

沖縄には初めて来て、この常連度の高い&入りにくそうなこの店にたまたま入ったという。いま修行中だと言っていたが、これから神社などの骨董市で商売をしていくという。この店を見つけるなんてさすが目利きですね、なんてつまらないことをぼくは言っていたが、第2の人生が露天商とはすごい。

【2月21日】 ジャン松元さんと合流して、通いつめた真栄原新町へ。いまだゴーストタウンのままのこの町で、元売春店の店舗を5年かけてまるごとリノベして「PIN-UP ギャラリー」を経営する許田盛也さんを「藤井誠二の沖縄ひと物語」で取り上げるために撮影&インタビュー。

夜、「串豚」でカメラマンの深谷慎平君と飲んでいると、TBSラジオディレクターの野口太陽さんがやってきた。ぼくもたまに出演させてもらう「荻上チキのセッション22」の沖縄知事選の取材なのだという。

じつは深谷さんも東京時代はTBSラジオでADとして働いていたので、野口さんは後輩になる。野口さんに、取材したらいいと思われる人を数人、紹介した。

許田盛也さんの取材を宜野湾市の真栄原新町で

砂川秀樹『カミングアウト』

【2月22日】 飛行機のなかで、砂川さんの『カミングアウト』という著書を読む。東京から沖縄に戻っていた時期に親にゲイセクシャルであることを伝えたことを綴った本だ。

沖縄にいる期間、LGBT関係の活動や、ピンクドット沖縄の共同代表をしていた。そのときに知り合ったという、フリージャーナリスト(元沖縄タイムス)の山城紀子さんについての記述があとがきにあった。

「ある日、彼女から私の母にインタビューしたいという申し出を受けた。彼女は、私の母を、活動に関係する交流会などでみかけ、『どういう気持ちでその場にいるのか聞いてみたい』という思いを抱いたという。

私は、正直母へのインタビューは難しいだろうと思った。母はインタビューを受けるという経験をしたことがなく、自分の経験や気持ちを、全く知らない人に語るということをしたことがなかったからだ。しかし、意外なことに母親は快諾した。」

砂川さんの同席はなかった。どういう話をしたのかを自分から母親に聞くことはなかったという。母がなにを語ったのかは山城さんの記事で知ることになる。砂川さんは次の山城さんの記事を引用している。

「その日砂川さんの母・博子さん(78)はあるエピソードを紹介してくれた。『忘れもしない、秀樹が小学三年生ぐらいの時、集金の人が来たのだけれどお金の準備がなかったものだから息子に「お母さんはいないと言ってくれ」と頼んだんです』。そう言って苦笑した。 秀樹さんの表情は明らかに困惑し、返事はなく、しばらくして『なぜ、うそをつくの?』と嫌がった。『とっても正直な子なんですよ。子どもの頃から』」(山城紀子「『あの日、手をつなげなかった』ことを思索する~性的マイノリティの言挙げ~『季刊セクシュアリティ』第66号 2014年)

この文章を読んで砂川さんは泣いたという。この出来事も覚えていたが、母が覚えているとは思わなかった。そして「正直な子」だと思っていたなんて想像したこともなかったと。砂川さんがカミングアウトしたからこそ聞き得た話なのだが、この話をインタビューで引き出し、冒頭に置いた山城さんの聞き手としての眼差しの深さ。すごい人だと思う。

私も『沖縄アンダーグラウンド』の取材中、山城さんには何度もお目にかかり、重要な示唆をいただいた。こんな視座を持てるようになりたいとその度に思ったものだ。

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