ニューヨークの高層アパートで桃を育てる96歳 豊かさ求めた移民の人生

マンハッタンのアパートの16階で今年も桃が色づき始めた
マンハッタンのアパートの16階で今年も桃が色づき始めた

よく茂った葉っぱの間からのぞく梅の実のような果実は、少しピンクに色づき始めた桃。その向こうにはマンハッタン、アッパーイーストサイドの街並が見渡せる。ジャングルのようにうっそうとしたテラスの緑をよく見ると、ほかにも、ミニトマトあり、レタスあり、ケールあり、ジャガイモあり、ミントあり、ブラックベリーの木まで。

ニューヨーク、マンハッタンのアパートのテラスで桃を育てている96歳の女性がいると聞いて、21世紀のおとぎ話のようだと思った。「桃」と「おばあさん」のコンビネーションで、「桃太郎」を連想したからかもしれない。

ミセス・メアリー・パレーラは、9年前に夫を亡くしてから、マンハッタンにある重厚なアパートの16階にひとりで住んでいる。この辺りは高級住宅街として知られる区域で、まっすぐ西に向かって歩けば、あのセントラル・パークまでわずか10分ほど。教会の礼拝から自宅に戻ってきたミセス・パレーラのインタビューには、娘と孫息子夫婦が同席してくれた。ミセス・パレーラは少し耳が遠いので助っ人に来てくれたのだ。

さっそくご自慢の空中ガーデンを見せてもらう。南向きのダイニングルームからテラスに出ると、人の頭を優に超える高さの桃の木や野菜の緑が目に飛び込んできた。さらにテラスを東に進んで角を曲がると、そこにも鉢に植えられた花や野菜が所狭しと並び、実をつけたブラックベリーが涼しげな木陰を作っていた。

桃は毎年100個ほどの実をつける

「桃の木は2本あるの。はじめは1本だったんだけど、桃を食べて種をテラスの土の上に捨てて放っておいたら、それが勝手に芽を出して大きくなったのよ」

桃は小ぶりの黄桃で毎年100個ほどの実をつける。桃はミセス・パレーラと娘が一番好きな果物だ。娘が「お母さんが桃の皮を剥いてくれて、私は10個も食べたわね」と言うと、ミセス・パレーラは「皮を剥いてあげただけじゃなくて、種も取ってあげたわよ」と“正確に”言い直す。

ブラックベリーは生で食べるのか、それともジャムでも作るのだろうかと思って尋ねると、実をとったらすぐに冷凍庫に入れるという返事。どうしてまた冷凍庫に?とさらに尋ねると、

「嫌いだから」

と、こちらの想定外のマイペースな答えが返ってくる。額面通りに受け取っていいのかどうかよくわからなくて、みんなが「???」という顔をしているのが愉快だという様子だ。冷凍庫に入れておくのは、どうやらブラックベリーが好物の姪が訪ねて来たときにあげるためらしい。

本当は、姪を喜ばせたくてそうするのだろう。でも、ミセス・パレーラはみんなが期待しているような、わかりやすくて退屈な返事はしない。まるで、まわりの人たちを眠たくさせないのが私の親切なのよ、とでも言うように。

人の手は極力借りない生活

ミセス・パレーラの1日は午前3時か4時に始まる。7時ごろ犬の散歩をして、コーヒーとトーストかシリアル、オートミールなどで朝食をとる。庭木や野菜に30分かけて水をやってから、9時ごろ昼寝をする。夜はあまりよく眠れないからだ。昼食にはタマネギやケール、ジャガイモなど、庭で採ってきた新鮮な野菜をたっぷり入れたスープを作って食べる。

「午後は洗濯したり、アイロン掛けしたり。ひと月に2回お掃除の人が来てくれるけど、埃を拭いたりとか、簡単な掃除は自分でしていますよ。買い物にも行くし、日曜は必ず教会に行きます」

車で数分のところに娘夫婦が住んでおり、孫夫婦も時々訪ねてくる。娘たちは一緒に暮らしたいと思っているが、ミセス・パレーラは首を縦に振らない。せめて、週末や休日を海の近くにある別荘で一緒に過ごそうと誘われても、「庭の水やりをしなければならないから」と“仕事”を理由に断ることもしばしば。「水やりくらい人に頼むこともできるけど、母は自分の“灌漑システム”を絶対に他人には触らせないんです」と娘はいう。

トマトなどの野菜は3月に鉢やプランターに種や苗を植える。まだ外は寒いので室内でしばらく育て、暖かくなったら20個もある鉢やプランターをテラスに出す。重い鉢植えを運ぶのは重労働だが、なんと、ミセス・パレーラはこれも大抵はひとりでやってしまう。孫が「いつ手伝いに来ればいい?」と聞いてもはっきりとした返事はせず、次に訪ねて行ったときにはもうその仕事はやり終えている。いつもこんな調子だ。

苦労して豊かさを手に入れる

ミセス・パレーラの人生には、アメリカに渡り、苦労の末に豊かさを築いて来た多くの移民の人生が重なる。両親の仕事の関係でアメリカで生まれたミセス・パレーラは、1歳になる前にポルトガルに渡り、結婚して再び、豊かな暮らしを求めてアメリカにやって来た。ミセス・パレーラが若い頃は、どんなに優秀でも女性が大学で学ぶのは難しかっただけに、娘には大学に行かせたいという思いも強かった。

1952年、アメリカの市民権を持つミセス・パレーラは単身アメリカにやって来ると、英語がまったく話せないにも関わらず帽子工場の仕事と住む場所を見つけ、5カ月後に夫とまだ幼かった娘をポルトガルから呼び寄せた。

夫が道路の舗装工事の仕事を得て昼間働き始めると、上司に申し出て夜勤に変えてもらった。こうすれば、娘のそばにいつも夫か自分がついていてやれるからだ。工場の仕事は夏がつらかった。エアコンなどない時代。帽子の材料の綿布は軽くて薄い。風が入ると飛んでしまうので、窓を開けることすらできなかったのだ。

生活は貧しかった。スーパーのセールで安くなった食料品を買って来て食事を作る日々が続く。年に1度の外食が家族の楽しみだった。そんな生活は、高度経済成長期を支えた日本の家族の姿とも重なってくる。

I am American.

アパートの壁という壁には飾り棚があり、ミルクグラスのコレクションや両親から譲り受けたという美しいガラスの食器セットなど、さまざまな思い出の品が順不同で並んでいる。その中から何か珍しいものを選んで見せてくれるのだろうと思っていると、「私が生まれる前に作られたものよ」ミセス・パレーラが取り上げたのは、高価そうなミルクグラスでもなければ、ポルトガル製でもない、一見、何の変哲もないような、樽のかたちをしたメイド・イン・アメリカの陶器製のソース入れ(のようなもの)だった。

「I am American.」と、しばしばミセス・パレーラは口にした。孫は「祖母はアメリカで生まれたことを誇りに思っているんです」という。生まれる時期があと少しずれていたら、アメリカではなくポルトガル市民になっていただろう。そうなっていたら、アメリカの市民権は簡単には取得できなかったかもしれず、ミセス・パレーラの人生は今とはまったく違ったものになっていたかもしれない。自分と同じ時代にアメリカで生まれたソース入れは、ミセス・パレーラにとって特別な思い入れがある品なのかのかもしれない。

ポルトガルでの人生を偲ばせるテラスガーデン

見事なテラスガーデンは、このアパートに引っ越して来た21年前に夫と作り始めて、少しずつ広げていった。

「ガーデニングをどこで学んだかって? ポルトガルでは誰でも知ってるわよ」

パレーラ夫妻はアメリカに渡って来る前、ポルトガルで農業を営んでいた。夫は畑でブドウを育て、ガレージにワイナリーとバーを作って村の人たちにワインを振る舞った。小さな村にはバーがなかったからだ。そんな昔話や身内の噂話を、ミセス・パレーラは好んで家族に話して聞かせる。そして、よくこの言葉を口にする。

「Ah it’s life.」

以前は時々ポルトガルに里帰りしていたが、

「もう親戚もいないのでポルトガルに帰りたいとは思わない。私の家族がいるのはアメリカだから」

ミセス・パレーラはこの5年ほどは毎年、ガーデニングは今年が最後だと家族に宣言している。だが、今年も桃は例年どおりたくさん実をつけたし、花や野菜は夏の日を浴びて元気に育っている。

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