バカ!バカ!大学生の自分のバカ!中国語に興味がなかった頃の話(僕の中国語独学記 7)

(イラスト・芥川奈於)

時は2000年1月。今から20年ほど前のことだ。

改革開放を掲げる中国の成長は著しく、「世界の工場」と呼ばれるようになっていた。人件費の安い中国でモノづくりをし、コストを削減するという目論見で、世界から企業が集まりつつあった。

その激しい流れは、中国人だけでなく、隣国の日本人も飲み込んでいった。僕の父親もその一人だ。当時勤めていたアパレル企業が中国に製造工場を作ることを決定し、責任者として選ばれたのだ。

2000年になってすぐ、中国の上海に単身赴任することになり、日本から離れていった。そして中国から戻ってきたのは2009年12月。なんと約10年間も中国で生活することになった。

海外旅行ブームに背を向けていた学生時代

こうして、僕と中国の最初の接点は生まれたわけだが、そのとき、大学2回生だった僕は、海外というものに一切興味がなかった。なんでかと問われれば、日本国内に夢中だったのである。

周りの友達は、大きなバックパックを背負って海外に出かけ、貧乏旅行に明け暮れていた。当時は、沢木耕太郎の『深夜特急』を参考にしたテレビの番組企画で、お笑いコンビ・猿岩石が挑んで人気を呼んだ「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」の残り香が充満していたし、日本円は強かった。

アジアやヨーロッパに日本人のバックパッカーがあふれていたが、そんな彼らを横目に、僕は日本国内を旅行していたのである。

しかし、2000年の夏、家族で父親に会いに行く計画が持ち上がった。僕は、まったく興味がなかったが、中国に行くことにした。義務として。

上海の空港に着き、タクシーで父親の住んでいるマンションまで向かう。マンションのある一帯は「古北新区」と呼ばれていた。日本の駐在員が多く住む地区で、いわゆる日本人村である。日本料理屋から、ローソン、スタバまである。

もし中国に興味がなければ、その地区から一歩も出る必要はない。そして、僕は本当に、インターネットと古北新区だけで、滞在期間を過ごしてしまったのである。なんと好奇心のない大学生であろうか。自分で自分に嫌気が差す。

中国滞在で覚えているのはキットカットを爆買いしたことだけ

もしこのとき、外の世界、上海の大海原にひとりで冒険しにいっていたら、僕の中国語の勉強は、スタートがもっと早かったかもしれない。さらには、留学なんてことだって、可能だったかもしれないのだ。

バカ!バカ!バカ!大学生の自分のバカ!

この年から大学を卒業するまで、僕の家では毎年中国旅行が定例になった。だが、僕は相変わらず、自分の殻に閉じこもったままだった。だから、当時の中国のことを僕は、一切語ることができない。

語れるのは、父親だけである。この間、父親は、中国でどのようなカルチャーショックを受け、語学をどのように身につけ、中国人とどうコミュニケーションしていたのだろうか。

僕は、父親の会社にも連れて行ってもらったが、まったく記憶に残っていない。いったい中国で何を見てきたのだろう。覚えているのは、近くのカルフールで袋詰めのキットカットを大量買いして食べたこと、それが凄く安かったこと、それだけだ。

今になって、そのことを強く後悔している。

そこで、父親に頼んで、当時のことを分かる範囲で語ってもらうことにした。次回から、その内容を記していきたい。これは僕にとって、中国の失われた記憶を取り戻そうとする行為だ。それによって、僕が中国語を勉強する意味をより広げることを目的とする。

果たして、中国語独学記外伝の始まりである。

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