夫でも父でもない88歳と「ひとつ屋根の下」で

「生きてる? 死んでない?」
最近、これが私たちの朝のあいさつになった。
すると彼は決まって、
「生きてるよ。おかげさまで今日も生きてるよ」
と、いかにもうれしそうに、恵比須様のような満面の笑顔で応えてくれる。
彼の名はヒロシくん。御年88歳。生きていれば、私の父とそう変わらない齢だ。
前髪少なめ、ちょっとウェービーな長い後ろ髪をゴムで束ねた、いわゆる“ちょんまげ”スタイル。背筋はしゃんとして、近所に出かけるだけでも服はモノトーン。なかなか、いかしたおじいちゃんである。
朝は血圧を測り、何を食べるか相談する。色気も素っ気もない、長年連れ添った熟年夫婦のような朝の一コマ。
でも、彼と私は夫婦ではない。恋人でもなければ、親子でもない。なんなら血のつながりもまったくない。
ヒロシくんは、亡くなった姉のパートナーだ。
突然始まった、88歳との共同生活
私の姉は、1年ほど前、友人と花見に出かけた先で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
ヒロシくんより25歳も年下だった。姉を失った衝撃から、ふと冷静になったところで思った。
「待てよ。え? どうすんの、このおじいちゃん!」
誰一人、身寄りのない88歳が、わが家の1階に残された。
「お~い。とんでもないもの置いてくなぁ~~」
当時の私は、妻業に終止符を打ち、おのれの生活を軌道に乗せることに必死だった。そこへ、想定外すぎる置き土産。
とはいえ、考えたところで現実は変わらない。
こうして、1階にやもめひとり、2階にバツいちひとり。まったくシナリオのない、一つ屋根の下の共同生活が始まった。
それまで姉のお世話で、3食昼寝付きの悠々自適生活を送っていたヒロシくん。その食事と身の回りの世話が、いきなり私に降ってきた。
幸い、トイレも洗濯も自分でできる。ただし、腎臓病を患っているため、食事には気をつけなければならない。私は仕事をしながら、自分とは別に減塩食を用意するようになった。
最初は互いに遠慮がちだった。ところが、半年もすると、
「これは固くて食べられない」
「このにおい、苦手なんだよ」
と、本音も湧き出てくるってもんで。
「いやいや、こちとら、いろいろ考えて作ってるんだぞ、おい」
そして、食べられることなく冷蔵庫の中で朽ちていく料理を見たある日、あっさり私の心は折れた。
バトル勃発。
家族以外の人と、あれほど激しく言い争ったのは初めてだった。
でも、その大喧嘩で、ようやく気づいた。これは違うかもしれない。全部を私が背負ったら、お互い不幸になる。
大喧嘩のあとに見つけた「ほどほどの距離」
そこで私たちは、世の中のお力を借りることにした。
掃除や買い物、健康管理はプロにバトンタッチ。そして、ヒロシくん自身にも料理を覚えてもらうことにした。
実はこのヒロシくん、若いころは服飾デザイナーだった。
某有名デザイナーのもとで働き、今でも近所に出かけるときは、モノトーンでまとめる。スウェットなんてもってのほか。さらりと描くデッサンの腕もなかなかのものだ。

ならば、料理だってできるに違いない。その才能を見込んで、一から教えてみた。
目論見は的中。
最初はご飯を炊くことさえままならなかったのに、今ではちょっとした一皿料理を自分で作る。
人は88歳からでも、こんなにバージョンアップできるんだ。見上げたちょんまげさんである。
もちろん、元気がなければ、私がご飯を作る。買い物も手伝う。手づくりの冷凍弁当だって常備してある。
でも、全面サポートではなく、一部サポート。
1年以上かけて見つけた、この「ほどほどの距離感」が、激流に放り出された私たちを、ようやくゆるやかな流れに導いてくれた。
88歳、まだ夢の途中
ある日、ヒロシくんが宝くじを買ってきた。酒を酌み交わしながら聞いてみた。
「もし10億円当たったら、何に使う?」
間髪入れず、答えが返ってきた。
「もう一度、自分のブランドをもって、洋服の会社を10年経営する。自分がデザインした服を、雅子さまや高市さんに着てほしいんだ」
88歳にして、まだ次の夢を見ている。なんとも、衰え知らず。その野心に、思わず脱帽する。
人生なんて、本当に予測不可能だ。
ひとりで生きようとしていた私と、身寄りのない88歳のヒロシくんが、今こうして同じ屋根の下で暮らしている。
家族ではない。でも、他人というには、ちょっと近い。
近すぎず、遠すぎず。必要なときには助け合い、それ以外は、それぞれで生きる。そんな「ひとりとひとり」の暮らしも、案外悪くない。
今日も私は階下に声をかける。
「生きてる?」
きっとまた、恵比須様のような笑顔で返ってくる。
「生きてるよ。今日も生きてるよ」

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