ひとりで開拓した飲食店は7800軒! 前人未到の「ひとり飲みの世界」

ひとりで開拓した飲食店は7800軒! 前人未到の「ひとり飲みの世界」

昼間のやなちゃんは、柳本さんという。仕立てのよいスーツに身を包み、メガネをくいっと指で持ち上げて、テキパキと打ち合わせをこなす。一度だけ、仕事中の姿を見かけたことがあるが、大都会で勤労するサラリーマンの顔をしていた。

日が暮れると、やなちゃんはやなちゃんになる。ネクタイを緩めれば、表情も雰囲気もほわんとほどけて、ひとり今宵の酒場を目指すのだ。数時間後、やなちゃんの顔は「ほわん」から「ふにゃん」になり、さらには「とろん」に変わり、大きな体は左右に揺れ始める。以前はニコニコしながら逆方向の電車に乗ったり、飲み屋に財布を置いたまま帰ったり、ささやかな事件を引き起こしたやなちゃんだが、最近はそこまでの深酒はしないという。

ひとり飲み歴は20年に及び、その間に勤め先は大阪から東京へと変わった。基本的には、ほぼ毎日、新しい店を開拓する。これまでに開拓した飲食店は7800軒。この数字には、ランチを食べた店や、地方を旅してハシゴ酒で一網打尽にした店たちも含まれるというが…それにしても、開拓しすぎだろう!ってか、飲み過ぎだろう!!

「人は、本当にそんなにたくさんの店に行けるものだろうか?」との疑問がわいたら、こちらをご覧いただきたい。

やなちゃんのホームページ
(1999年から2015年10月までに開拓した酒場の記録。どの店も、説明文が35文字×4行にピタリとおさまっている几帳面さにご注目!)

やなちゃんのブログ
(上記ホームページの更新が不可能になり、2015年11月以降はこちらに「出没情報」を載せている。酒場の数も膨大だが、読んだ本と見た映画の数も尋常ではない!)

編集部注:2020年〜21年も「やなちゃんのブログ」は更新されていますが、コロナの影響で出没回数はグッと少なくなっています。「やなちゃんのホームページ」は2021年4月現在、アクセスできないようです

やなちゃんの手帳。美しく気持ちよく酒場の名前が並んでいる。
やなちゃんの手帳。美しく気持ちよく酒場の名前が並んでいる。

12歳からひとり暮らし 筋金入りの「ひとり好き」

わたしがやなちゃんに初めて会ったのは、7年ほど前。もちろん場所は酒場だ。以来、ときどき待ち合わせて飲みにいく仲である。と、さらりと書いたが、じつはやなちゃんが誰かと一緒に飲むことはとても珍しい。それを今回の取材で改めて思い知った。やなちゃんの「ひとりを楽しむ」姿勢は予想以上に徹底しているのだ。

わたしはFacebookのメッセンジャーでやなちゃんに連絡をとっているが、やなちゃんは朗らかに言った。「Facebookの友だちが20人を超えると、ちょっと多すぎるなと思って勝手に削除している」。わはは!やなちゃんと7年も友だちでいられたなんて奇跡だわ。

やなちゃんが「自分はひとりで過ごすのが好きである」とはっきり自覚したのは、小学校高学年の頃だという。家族そろって親戚の家に行く、という場面で「ぼくは留守番してる」とひとり家に残った。家族は面食らったが、やなちゃんは自分にとって居心地がいい方を選ぶ子どもだったのだ。

決定的だったのは、中学からひとり暮らしを始めたこと。兵庫県北部のごく小さな集落で生まれ育ったやなちゃんは、「ここにいては進学できない」という理由をつけて、鳥取の中学に越境入学する。

「兄貴は家から地元の中学に通ってた。だから進学できないとも言い切れないんだけど、まぁ、ぼくはひとりになりたかったから…」

それで、12歳からひとり暮らし!筋金入りだ。田舎の少年から見たら、鳥取は大都会。貸本屋もある。映画館もある。やなちゃんの人生は忙しくなった。

「下宿にテレビはなくて、しょっちゅう貸本屋に行った。小説や雑誌も借りたし、『あしたのジョー』を大量に借りてきて一気読みしたこともあった。1冊5円だったかな。お小遣いを節約して、当時、鳥取にきた映画はほとんど見たと思う」

中学と高校の6年間を鳥取で過ごした。友だちもいたけど、遊ぶのはひとり。

「部活? そんなもん一切やらない。ほかにやることたくさんあったし」

「ひとり酒活動」にいそしむ日々

筑波大学に進学した後も、サークル活動などには目もくれず、古書店に通い、映画館に通った。就職した後も、合コンや社会人サークルなどとは無縁。仕事はまじめにやったけど、残りの時間はひたすら読書と映画。そうして20代も終わりに近づいた頃、やなちゃんは、ついに壮大なひとり遊びを見つけてしまったのである。

学生時代や就職したての頃も、お酒を飲む機会はあった。でも圧倒的にお金がなかった、とやなちゃんは語る。しかし勤めて数年経つと、毎晩酒場に通えるほどの余裕が出てきた。当時の勤務地は大阪。安く飲める店がたくさんあって、ひとりで一軒ずつ巡っていった。

「1999年のある夜、酔っ払って家に帰って、パソコンに無料で付いていたホームページ作成ソフトをいじってたんだよね。いつのまにか寝ちゃって、翌朝目が覚めたらホームページができていた…」

なんだそりゃ、妖精の仕業か。それが先に紹介した「やなちゃんの大阪一人酒の日々」というページである。誰に見せるわけでもなく、あくまで自分用のメモ。それでもやっぱりメモが増えるとうれしいので、やなちゃんはさらなるひとり酒活動にいそしんだ。そして2006年、東京に転勤。新たなフィールドを得たやなちゃんは、縦横無尽に飲み歩いた!

「有名店や老舗、おいしいと評判の店は一通り行った。でもそういうところは混んでいるでしょう。昔は『活気があっていいね』なんて思っていたけど、歳をとるにつれて、ひっそりとした店を求めるようになった」

とか。本や雑誌、ネットで居酒屋情報を収集していた時期もあるが、話題になるような店は行き尽くした。最近は「まだ降りたことのない駅」を選んで下車し、街をうろうろして嗅覚で酒場を探し出す、という楽しみ方をしているらしい。

「昨日は、赤土小学校前って駅で降りてみた」
「え? それ、なに線?」
「日暮里から出ている舎人(とねり)ライナーっていう路線」

し、渋い…。さすがに7800軒も制していれば、店の外観を見れば大体の様子はつかめるという。「最近は、ここはちょっとやばいんじゃないか…というギリギリの店、むしろハズレの店に惹かれる」という倒錯ぶりがおかしかった。マグロ刺し、ポテサラ、煮込み、つくね、といった定番メニューで、店の実力を試す。

「昔は味や安さも重視してたけど、いまはとにかく居心地のよさが最優先。ぼくは、誰にも邪魔されずに、ひとりで楽しく飲みたい。でもそれがわかってもらえない場合もあって…」

「ひとりは寂しくない!」

やなちゃんが嘆くのは、世間に蔓延する「ひとりは寂しい」という固定概念と、それに毒された人による「余計なお世話」だ。ある雑誌に「一人酒のススメ」みたいな記事があって、どれどれ…と手にとってみたら、「気さくな店主がいて」「常連客ともすぐに打ち解けられる雰囲気で」「ひとりで飲みに行っても寂しくない」なんて調子で書いてあった、とやなちゃんは苦笑する。そういうんじゃないんだ!ひとり酒の楽しみは!!

ちなみに、ランチもほぼ毎日、新規開拓している。「うちの会社はフレックスタイムだから、仕事に余裕がある日は、電車に乗って遠くまでお昼ごはんを食べに行っちゃう」そうだ。「10日連続タイ料理」とか「40日連続カレー」とか、テーマを掲げて楽しんでいる。もちろん、ひとりで。

テレビは見ない。ネットもほとんど見ない。携帯電話は会社から支給されたガラケーで、「誰の番号も登録していない」。Facebookは前述の通り、「友だちが20人を超えないように気をつけている」。読書と映画好きは変わらず、昨年は1年間に読んだ本191冊、見た映画380本を記録したとか。毎晩飲んで、この数字!あっぱれ。

「一昨年だったかなぁ、年末年始の休みに有給休暇をくっつけて20連休をとったの。その間、誰とも会わず、電話もせず、ひたすら本を読んで映画を見て酒を飲んでいたけど、ぜーんぜん寂しくなかった」

なんて清々しい人生だろう。やなちゃんは無人島でも生きていけるね。いや、無人島には酒場がないからダメか。

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