福島原発の近くで食べた「ローカルアイス」は格別だった〜2019年3月「鉄道ひとり旅」
2019年の春先。「3.11」を前に、鉄道でひとり、福島県の沿岸部「浜通り」を旅しました。旅の目的は、特になし。しいて言うなら、東日本大震災の年にひとりで旅した土地を、再び訪れてみようというもの。気楽なライターの、思いつきひとり旅でした。
窓から見える風景は一変していた
震災から9カ月後の2011年末、筆者は東京から仙台(宮城県)まで東北新幹線で北上した後、常磐線に乗り換えて、宮城県と福島県の海沿いを南下する旅をしました。そのときは南相馬市(福島県)の原ノ町駅で下車し、立ち入りが規制されていた「警戒区域」の境界があったあたりまで、国道を約3キロ、ひとりで歩いてみたのです。
それから8年後、2019年の3月8日。前回の旅と同様に、新幹線で仙台まで行き、南下しました。8年前は震災の影響で代行バスに乗り換える必要があった区間も、今度は電車に乗ったまま旅することができます。
当然のことながら、窓から見える風景は当時から一変。震災の「爪痕」らしきものは、ほとんど見られません。ただ、車内には「津波警報が発表された場合のお願い」という注意書きが貼られており、一帯で甚大な被害があったことを思い起こさせました。
原ノ町駅で乗り換え、小高駅に向かいます。2016年まで「避難指示区域」に指定されていた小高地区にある駅です。
電車は、寒い地域などで見かけるボタン式ドアでした。途中の駅で、おじさんが「開」ボタンを押して降りる寸前に、さっと「閉」ボタンを押し、ドアの開閉時間を最小限にとどめたのが、とてもかっこよく見えました。小高駅に着いたとき、筆者もさっそくマネしてみましたが、あやうくドアに挟まりかけました。
小高は、どこにでもある地方の田舎町といった風情です。ただ、駅前にはモニタリングポスト(放射線量を測る装置)が置かれていました。
町を歩いてみます。小高に着いたのは夕方でした。真新しい建物がいくつかあり、わいわいと話しながら歩く高校生の姿もありました。震災によって住民が避難し、いったんは人口ゼロとなった小高ですが、いまは3000人以上が暮らしているそうです。まるまる太ったノラ猫が、目の前を通っていきました。
駅から5分ほど歩くと、作家・柳美里さんが2018年に開いた書店があります。店の外見が「ザ・一軒家」なので、扉を開くのに躊躇しましたが、なかは木のぬくもりが感じられる可愛らしい内装です。南相馬市で生まれた男を描いた柳さんの小説を購入しました。
「みんなが知らない話が数えきれないほどある」
夜は、旅館の女将さんに教えてもらった近所の居酒屋で飲むことにしました。ここは、もともとスナックだったそうです。
お店の「ママ」は震災後、近くの町で居酒屋を営んでいましたが、火災で店を失くします。同じころ、店を手伝っていた20代の息子が店を継ぐ決心をしたのを機に、小高に店を建て直したといいます。
酒がすすむうち、自ずと震災の話になります。ママは震災で父親を亡くしたそうです。遺体が見つかったのは、震災から数年後でした。身に着けていたものから、父であることがわかったといいます。
「ようやくこういうことが話せるようになった」とママ。それまでは震災に関する話を、したくなかったそうです。「みんな知らないだけで、こういう話は(被災地の)そこらじゅうに数えきれないほどある」と言っていたのが印象的でした。
翌朝。さらに南下して、浪江駅(浪江町)まで行きました。ここから数駅は、代行バスで移動しなければなりません。バスに乗ると、途中で「帰還困難区域」を通過するというアナウンスがありました。
やがて窓から、いまもなお震災直後の様子を色濃く残す光景が飛び込んできます。車やトラックが激しく行き交う国道のすぐ隣に、2011年3月11日からほとんど手付かずのままの場所があるのです。そのはるか先には、福島第一原発で作業するクレーンらしきものが見えました。
代行バスで移動したこの区間も、2020年の春には電車で移動できるようになる予定だといいます。
30分ほどでバスは富岡駅(富岡町)に到着。いわき行きの電車まで時間があったので、駅の売店で「アイスまんじゅう」を食べました。天気がよかったこともあり、ミルクアイスでこしあんを包んだ、このローカルアイスの味は格別でした。
パッケージの裏を読むと、製造元は前日に降りた南相馬市の原ノ町駅近くの会社。不思議な縁を感じました。
福島県の東側をぐるっと周ったひとり旅は、いよいよ終盤です。海を眺めながら、いわき駅(いわき市)へ。特急「ひたち」に乗り換え、東京への帰路につきました。