知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・上(沖縄・東京二拠点日記 番外編)

真栄原新町
真栄原新町

『沖縄アンダーグラウンド』では紙数の関係で書き切れなかった戦後史の重要な局面について、あらためて触れておきたいと思う。

→知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・上
知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・中
知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・下

那覇に置いてある取材ノートをめくってみる。よく今でも飲食店にレブリカの標章がかけられているけれど、いわゆる「Aサイン」(Aサインバー)について、たぶんあまり知られていない歴史を振り返っておきたい。

「Aサインバー」の始まり

1952年7月に「風俗営業取締法」が琉球立法院第1回議会で可決される。飲食店やカフェー、喫茶店の体裁をとっていても内実は売買春店だったから、それを取り締まるものだった。ひとことでいえば、営業形態を届け出通りのことしかさせないというものだった。

これに続いて「食品衛生法」も可決させ、本土と同様の食品衛生基準を厳しく守らせようとした。これもオフリミッツ(米兵立ち入り禁止区域を指令したもの)を米軍側に発令されないために、場当たり的におこなってきたこれまでのさまざまな施策を成文化したものだ。

一方、米側は「食品衛生法」よりも基準を厳しくした立ち入り検査をおこない、それに合格した店にのみ米兵軍属の立ち入りを許可する「営業許可制度」を実施するようになる。これが「Aサイン制度」の始まりである。沖縄に興味がある人なら誰でも知っている「Aサインバー」について書いておきたいと思う。

1953年11月、軍司令部は駐屯米軍に対して軍の許可証を持っていない店への公用以外での立ち入りを禁じた。最初に許可証を得た4軒は、「琉球ホテル」、『辻の華』を書いた上原栄子がはじめた「料亭松の下」、「民政府内グローバーリーブ」、そして『沖縄アンダーグラウンド』でも触れた、2008年に売春防止法違反容疑で社長が逮捕された「料亭那覇」であった。

上原栄子は『辻の華』にAサイン許可証をもらうシーンを次のように綴っている。

沖縄最初のAサイン証授与のために、軍の最高司令室へ来いとのお達しを受けた私は、琉球ホテルのオーナーと米国民政府食堂を経営するご婦人と三人で、米軍司令部の玄関で落ち合って、オグデン将軍の部屋に入って行きました。そして、英字が書かれた書類の上におおきくAと赤いスタンプの押された証明書を渡されました。これが、米軍人の全部が料亭に来てもよいというAサインかと思ったらがっかりです。うんと大金を注ぎ込んだ調理場を考えると、軍隊の入口に立つような大きな看板をもらえるものと思っていたのです。ところが、手渡されたのは、何と半紙ぐらいの小さな紙で、こんな小さな紙切れで大きな軍隊が来れるかしらと思い悩みます。

許可証の中央には「A」と書かれていた。「APPROVED」(許可済)の頭文字である。現在でも古い店に行くと当時のものがそのまま店内に飾られているところがある。イミテーションも出回っているから、「沖縄らしさ」を演出するためにそれをインテリアとして使っている飲食店も多い。

「A」の色は業種別にわけられていて、飲食店は赤、バーやクラブなどの風俗営業は青、食品製造販売業は黒である。私たちがいまも見るのはこの中の「赤A」である。このAサイン証をとるためにはさらなる資金が必要だったが、金融機関は風俗関係の業種には貸し渋りや融資の禁止をしており、業者たちはさらなる苦境に立たされることになる。

「オフリミッツ」で打撃受けた八重島

一方で、オフリミッツ旋風はまだおさまらなかった。1954年7月に中部の越来村全域にオフリミッツが発動された。売買春による性病感染をくい止めるための衛生改善を怠ったという理由だ。コザ十字路や、八重島、センター通りはまたしても打撃を受けることになったが、だめ押しにちかい深刻なダメージを負ったのは八重島だという。

殆どが米人が主体であっただけに、立入禁止でMPの巡らも厳重になり、客はガタ落ち・・・。何時もなら俸給期で15日ころまではかき入れ時というのに、うってかわってお茶を引き続ける有様にヒ閑のタンをかこっている。1ヶ月も続くと飯の食い上げだというので、早くも普天間や北谷、嘉手納などの店を分合制で、抱えの女性を出張家業させる話し合いを進めている業者もあるという。(『琉球新報』1954年7月11日付)

オフリミッツを迎えたその夜から全く意気を失った村全体。まずコザ十字路のカフェーというカフェーは、夜の9時過ぎともなれば燈は消え扉は堅く閉ざされてしまう。今までは肩をスリ合う程ごった返した通りも、お通夜みたいな寂しさを呈している。ただアイスケーキ屋がポッツリポッカリ戸を開いているくらい。センター区でも土産品は殆ど店じまい。タクシーの流れは思い出した頃に1台の割。このまま解禁を待っていては餓死するョと、いち早く悟った夜の姫君たちは次々余所へ鞍がえ。ひねもす寝そべって、夜は仕事に出るムキもある。(後略)(『沖縄タイムス』1954年7月15日付 )

住民は清掃運動に躍起になったが、米軍司令部はオフリミッツを小禄、浦添、宜野湾、嘉手納の各特飲街へと拡大した。軍司令部は今回のオフリミッツは本国からの通達であると言明したが、あくまで軍関係者への売春を禁止するもので、沖縄人同士のそれに理由があるものではないと説明した。

越来村では懸命の清掃活動が実を結び、一部地域をのぞいてオフリミッツが解除された。解除されなかったのは、『沖縄タイムス(1954年7月20日付)』によれば、「嘉手納基地第2ゲートの北方と越来の南方に位置するニュー・コザ」「(軍道)24号線と13号線の交差点(コザ十字路)の北方に位置する新吉原」「(軍道)24号線と13号線の南東側に位置するコザ十字路の一部分で、交差点とコザ高校との凡中間のところ」「嘉手納基地第2ゲートとコザビジネスセンター間に位置するコザビジネスセンターの一部分」「サンキューバザーの道路沿いの園田の(軍道)5号線道路側に位置する街」だった。

つまり八重島や吉原、センター通りなど米兵相手の売買春をおこなう店が集中していた地域である。つまり米兵相手の売買春行為はそれまでどおり、何があろうとおこなわれていたのである。

1954年10月には、再び越来村と嘉手納村にオフリミッツが発令された。ここには食堂やアイスケーキ屋、写真館、民家、空き家までもがふくまれていた。これらの店等には「この家は売春行為、又は売春婦集合の家として認証されました。ゆえに無期立ち入り禁止となります」と書かれた印刷物が配布されたという。

オフリミッツ解除に奔走する住民側

こうしたオフリミッツを連発する米軍側と各市町村の代表者らは、再三にわたって話し合いの場をもうけ、米軍はさらなる衛生管理を徹底することと、売春を根絶することを強く要求する一方、住民側はオフリミッツによる経済困窮を訴え、解除のために奔走するという構図が続くのである。

オフリミッツの間には業者の倒産や廃業はあとを絶たず、琉球政府はオフリミッツを解除してもらう案として、売春業者と売春女性の転業を決め、米側に提示、ようやく解除に応じてもらう見通しを立てる。

そのモデルケースとなったのが、すでに閑古鳥が鳴いていた八重島だった。皮肉としかいいようがない。米軍政府が「黙認」してきた街を「売買春転業」の試験的モデルケースとして差し出し、3カ月以内に完全転業を達成すれば解除するというものだった。

これは住民の自助努力はもちろんのこと、琉球政府のあらゆる部局が売春行為をやめさせ、転業を即し、援助するという方策に乗り出したということだった。

この頃の八重島の様子が『沖縄タイムス』に次のように報道されている。

何しろ半年に渡る前例の無い長期オフリミッツであったため、業者の大部分が手持ち資金をその間の生活費に使い果たし、「せっかくの解禁も手ぶらでは戻りようが無い・・・」。業者も委出発までには色々苦労したようだが、27日までに旧八重島組合113軒中56軒がすでに開店、または開店の準備に着手している。27日までに開店した業者を見ると、ビアホール、キャバレー、ダンスホールなど15軒、玉転がしなどの遊技場11軒、食堂・レストラン2軒、氷屋1軒、雑貨商7軒。開店準備中ででは雑貨商5軒、キャバレー・ダンスホールなど約20軒(後略)(『沖縄タイムス』1954年11月29日付)

しかし、すでにとき遅しという状況は否めず、

現在、同区で働いている女給は僅か8名という寂れ肩。軍免許制の営業に切り換えれば従来通りと言う実施案により、業者も今のところ従来通りの営業(売春は禁止)で営業を続けているが、業者が乱立すれば、またまた共倒れか競争心にかられてオフリミッツの事態を招く恐れもあり、現在の特飲街は文字どおりハレ物にさわるような寂しげな営業ぶりである。(『琉球新報』1954年11月30日付)

とかつての「ニューコザ」と呼ばれた八重島を取り戻すことは困難な様子が伝わってくる。

しかしというべきか、いわば自粛営業中の八重島に対して、止めを刺すように業者17軒の個別オフリミッツが指定される事態が起きる。街の息の根がとまった出来事だっといってよく、ついに沖縄最初の売買春街は繁栄に終わりがきた。

「BCストリート」の台頭

他の那覇市の小禄新町や、コザの照屋などもオフリミッツは解禁になっていったが売買春はなりをひそめ、同じように衰退の道を歩んでいく。かわりにAサインを取得し、Aサイン飲食店街へと変貌をとげていく街が台頭してくる。

そのAサイン飲食店街として台頭してきたのが、八重島と隣接するような位置関係にある「センター通り」だった。現在の沖縄市中央パークアベニューで、私がインタビューをした喜屋武幸雄や宮永英一らが少年期を過ごした街である。

喜屋武もインタビューの中で語っていたが、センター通りはもともとビジネスセンターとして構想されたもので、「BCストリート」(ビジネスセンターストリート)とも呼称されていて、特飲街にはしないというのが当初の目的だった。『中部情報』には次のように紹介されている。

ビジネスセンター街は、米琉親善の街にしようと計画されたところで、今では文字通りの国際色豊かなタウンに発展した。ところで、センター街には、Aレストラン58軒、スーベニアショップ30軒、雑貨店100余軒、写真館5軒をはじめ、映画館、中央病院、保健所があって町を形成している。センター通りは、裏町(八重島)の玄関になっているので、夜ともなれば車のラッシュで賑わい、100余の鈴蘭灯とネオンの交錯は不夜城を現出する。クリスマスから大晦日にかけて裏町の営業時間が延長されたので、センター通りはタクシーの洪水で異様な景観だった。(後略)(『中部情報』1956年1月1日付)

今も「BC」を冠している中古車は店やスポーツ用品店などを見かけることがあるが、その名残だということを、たぶん若い世代は知らない。ぼくもコザの歴史を調べるまで知らなかった。

また、一方でAサイン制度も基準が厳しくなり、「赤A」と「青A」を取っていない飲食店や風俗営業店では、米兵や軍属への飲食物の提供ができなくなった。この厳しい基準に業者側は即座に対応できず、猶予期間願いが出るほどだった。

ゴーストタウンと化した2011~12年ぐらいの真栄原新町

さらに抜き打ちのようなMPの独断による検査がおこなわれ、新しい「青A」を取っていない石川市のカフェー22軒、具志川村平良川のカフェー70軒、センター通りで数軒の営業を停止させる出来事が起きた。

これはMPの勇み足的な行動だったことがあとでわかるが、「赤A」と「青A」の新基準に適合しないとオフリミッツをくらってしまうと業者たちは大慌てし、免許をとるために資金繰りに翻弄されることになる。業界団体は少しでも取得基準等を緩めてもらうために、米側に陳情を繰り返した。

オフリミッツは何も米兵性病防止を目的とした売春根絶、衛生状態の向上などだけで発令されるものではない。再度、簡略に記すと、一方的な土地一括買い上げをめぐる「プライス勧告」に端を発した米側と沖縄の対立は「島ぐるみ闘争」に発展し、1956年の中部(地域)無期限オフリミッツ発令につながった。

これは建前は、米兵と反米勢力との衝突を避ける政治的な目的のオフリミッツだった。しかし、米兵相手に生計を立てている街や人々に経済的な打撃を与えるため、やがて県民を分断する空気が生まれてくる。

オフリミッツを解除してもらために、反米的態度をあらためようという声が聞こえ始めるようになったのである。米軍経済に依存する背に腹は換えられない沖縄の人々の弱みにつけこんだ、オフリミッツの政治的利用である。

(「知られざる沖縄特飲街「Aサイン」戦後史・中」に続く)

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