「浄化」された町の女たちの「怒り」に触れる(沖縄・東京二拠点日記 20)

沖縄の街を散歩中に寄ってきた猫
沖縄の街を散歩中に寄ってきた猫

10数年前から続けている、沖縄と東京の二拠点生活。1月下旬は、ぼくが『沖縄アンダーグラウンド』を書くためにどう取材をしたかをじっくり振り返ってみた。

沖縄のタクシーをめぐるトラブル

【1月某日】この日も『沖縄アンダーグラウンド』の膨大な取材ノートをめくりながら、どのように取材したかを振り返っていた。ぼくは20代の前半から沖縄通いを始めているが、 いわゆる「沖縄病」にかかって沖縄にハマり、数カ月おきに通うようになっていた。

その頻度はだんだんと多くなっていくことになるのだが、前回も書いたように、たまたまある夜に乗ったタクシーのドライバーによって、沖縄最大級の売買春街へと連れていかれた。わりと強引に誘われたが、そういうものにとりあえず乗ってみるのは、職業柄だろうと思う。

身に危険が及ぶとか、ぼったくりに遭うとか、そういう雰囲気はまったく感じなかった。まあ、かなり酔っていたし、好奇心もあって話に乗ってみることにしたわけだが、予想もしない場所に連れて行かれたので、実は、かなり驚いた。

繰り返すように、最初はまったくの偶然だった。たまたまホテルに帰ろうとして乗り込んだタクシーに連れていかれた。

のちに、この街の「浄化運動」を推進してきた側の女性団体に取材したとき、風俗街を主に流しているタクシーが、観光客を真栄原新町に半ば勝手に連れていくのが問題化していたことがわかった。

ぼくが乗ったタクシーのドライバーは、本書に「タクシードライバー大城」(仮名)という名で登場する。後々、重要な取材ルートの幹のような存在になる人なのだが、彼は強引に買春をすすめるようなことはしなかった。

だけれど、中には客が酔って眠ってしまっているのをいいことに、勝手に連れていったりする悪質な手合いもいた。タクシーの乗客は目が覚めたら、頼んでもいないいかがわしい場所にいる。

当然、トラブルになったり、のちのち問題になることは目に見えている。料金をめぐるトラブルなどはおそらく絶えなかっただろうと思われる。

そういった客引き話は、以前からあった。ポン引きが空港にわんさかいて、飛行機を降りてきたばかりの男性客に声をかけまくるという異常事態が常態化していた時代もあったほどだ。

宜野湾市の真栄原新町

それに対する苦情は散発的にあったけれど、行政も警察も女性団体も「浄化作戦」を大々的に立ち上げるまではいかなかった。

売買春街の「浄化運動」を主導した女性たち

しかし、2010年ぐらいから、「そういった街へ観光客を案内するのは沖縄の恥さらしだ」という声があっと言う間に広がった。「浄化運動」の一つのモチベーションのようになり、売春がゼロになるまで徹底的に運動をおこなっていたのだった。

この女性団体もときどき新聞に登場していたが、総じて地元紙は好意的だった。彼女らのコメントが紙面に載ることはあまりなく、載ってもせいぜい数行。だから、どういう人たちなのかがぜんぜん見えてこない。

そこで、ぼくは宜野湾市役所の中にある事務所をアポなしで訪れることにした。概してこういう取材のときは、事前にアポをとっていくと、断られたり、無視をされることが多いからだ。そのときはたまたま東京から、担当編集者の石井克尚も来ていたから、いっしょに飛び込んだ。

事務所内には反基地のメッセージを書いたうちわをつくっている中年女性たちが数人いて、その中の1人が代表格の人だった。うちわには、伊波元宜野湾市長の写真が印刷してあって、彼を支援していることは一目でわかった。

ちなみにぼくも、伊波氏――のちに長時間のインタビューに応じてもらうことになる――の基地問題に対するスタンスには賛成なのだが、こと売買春街の問題になると、彼は「浄化運動」のリーダーの顔になる。

女性は小1時間ほどの取材に応じてくれたが、最後のほうは不愉快な顔をして、「早く帰ってほしい」と言わんばかりだった。

ぼくは、「浄化運動」がピークだったころに彼女たちが売買春店に投げ込んだ「売春は女性として許せない」というメッセージを書いたビラなどを、あとで石井のところに送ってくれるように頼んだ。その場では承諾してくれたものの、結局一切何も送ってきてくれなかった。

しかし、女性たちの本音は聞けた。おそらく地元紙にも載ったことがない言葉が聞けたと思った。売春女性と「浄化運動」を推進した女性たちの生々しい対立が感じられた。

取材の途中、あるトークイベントでノンフィクション作家の与那原恵さんと邂逅する機会があったが、両者の「対立」の構造のようなものをしっかり観察して書きなさい、と貴重なアドバイスをいただいた。

「浄化された街」の水先案内人

最初にその街の存在を知ったのはぼくが20代前半の頃なのだが、実際に取材を始めたのは40代になってからだ。

その間は、沖縄へ行く頻度が増えていっても、常にその街に入り浸っていたわけではない。たとえば1週間滞在しても一度も立ち寄らなかったこともある。しかし、件の「タクシードライバー大城」と親しくなり、たまに彼の仕事が休みのときには酒を飲んだりするような間柄になった。

彼が知っている店でよく飲んだ。たまに山羊の生肉をビニール袋に入れて持ってきて、刺身で食べるからカットしてくれと店のスタッフに頼んでいた。内地出身の居酒屋のマスターは山羊がことのほか苦手で、言われるままにカットして、生姜と醤油を添えて刺身で出してくれたが、箸をつけなかった。

ぼくは山羊肉も好物なので、タクシードライバー大城とつついた。泡盛との相性のよさに驚いた。山羊といっても海外種と掛け合わせをしている個体が多く、ぼくが最初に食べた山羊より臭みがなく、物足りないほどだった。

タクシードライバー大城と付き合ううちに、彼は県内各地の売買春街に連れて行ってくれたし――運賃はちゃんと支払った――いろいろな人を紹介してくれた。とくに売買春店を経営している人たちに繫いでくれた。

紹介を受けると、それ以降は、ぼく1人で彼らが経営している売買春店に行くことも増え、そういった店で酒を飲む機会が増えた。だいたいがデリヘルの待機場所も兼ねていて、ひっきりなしに女の子が出入りしていた。

そういった店は、地元(沖縄)の人は原則として入口でスタッフに入店を断られる――泥酔者はとくに――が、店が親しく長年付き合っているタクシードライバーなどの紹介があれば受け入れてくれた。

ぼくは店の経営者や働いている女の子と話すのが好きだった。よくステーキハウスでお土産のハンバーガーを買って、女の子たちに持っていった。ときには自著を持っていって女の子に配ったりしたし、名刺も出していたから、ぼくが何者なのかはわかっていたと思う。

ぼくは取材モードではなかったから、たまに飲みに現れて、いろいろ沖縄の話を聞きに来る内地からの物好きという目で見られていたと思うが、やはり紹介者の存在が大きい。そもそもそういった紹介がなければ、そういう店で酒だけ飲むことはできなかった。

つまり、そこにいる女性たちをホテルへ連れ出したりする買春前提でなければ、店に出入りすることが基本的にできないのだ。タクシードライバー大城と仲よくなっていなければ、そういう街の内部へ繫がっていかなかったと思う。

那覇市内の風景

「この兄さんに沖縄のことをいろいろ教えてやってよ~」と彼はぼくを店に置いていった。店のやっていることは違法状態で、警察の内偵もありうるので、出入りする人間になかなか警戒心を解かなかった。しかし大城の紹介があったから、店側も警戒心のようなものを少し解いてくれたのだと思う。

沖縄で売春をしていた女性たちは、たまに内地の店で働くために、横浜や東京に短期で引っ越すこともあった。東京に出てくると連絡をくれて、横浜中華街でメシを食べたりしたこともあった。

ちなみに、タクシードライバー大城はヤクザではないし、裏社会の人間でもない。沖縄では戦後まもないころ、ヤクザがタクシー会社を経営していたことがあって、今でもその会社はある。助手席に置いた新聞の下にドスが隠してあったという話は何回も聞いた。

タクシードライバー大城も一時はその会社に勤めていたことがあったらしい。ぼくは取材の過程で何人かの現役ヤクザや引退ヤクザにインタビューを重ねていったが、彼の紹介ではない。

あるとき、そのタクシードライバー大城をふくめた、幾人かのタクシードライバーのことを1冊書きたいという気持ちになった時期がある。

彼は1950年代生まれだが、彼の少年期であるアメリカ占領期の話や、沖縄の夜の顔を「沖縄タクシードライバー」というようなタイトルで記録できないかと考えた。梁石日さんの『タクシードライバー日誌』が脳裏にあったからだと思う。梁さんの本は自身の体験談だが、沖縄のタクシードライバーから聞き書きをしたいと思ったのだ。

タクシードライバー大城は引退した売春女性のこともよく知っていた。うまく貯金することに成功して会社を興したり、結婚して曾孫がいたりする女性とつきあいがあった。

そういう女性たちを紹介してもらうことは最後までできなかったが、彼から得た情報はとても貴重なものばかりだった。沖縄の新聞の「名物」ともいえる「訃報欄」をぼくに見せて、「ほら、この、おばあはよ、大成功した人さ」と教えてくれた。

取材モードに切り替わったタイミング

街が「浄化」作戦に圧倒されてしまい、急激に店がなくなり始めているという情報をくれたのも、タクシードライバー大城だった。ぼくは沖縄に来ても違うテーマの取材で忙しく、真栄原新町や吉原、辻などの売買春街にまったく足を運ばないことも増えていった。

タクシードライバー大城から「街がたいへんなことになってるさ」と連絡をもらったのは、そんなころだった。それまで入り浸っていただけの街を急遽、取材対象に変えたのはそんなタイミングだった。

沖縄の街を走るタクシー

それまでは意識的に街から情報をインプットすることをしていなかったが、街で生きる人々との関係性はかなりできていて、それは「資源」だろうという意識はあったが、「書く」というアウトプットをするつもりはなかった。

アウトプットをするためには、それまでの、とりとめのない話だけではダメだ。ぼくは意識を取材モードに切り替えることにした。

真栄原新町などの売買春街のことは、風俗情報として雑誌やネットに載ったり、買春体験記のような無頼系作家が書いたりしたものはあったが、その街で生きてきた人たちが自身の言葉で語ったものは皆無に近かった。

しかし、自分たちが生きてきた糧を奪われて、街が「浄化」されることにより、彼らは街や人があったことを書き残しておいてほしいという気持ちになった。はっきりと口に出してそう言った人は少なかったが、あきらかにぼくが付き合ってきた人たちの「空気」が変わったのだった。

皮肉な話だが、そこから、ぼくの取材が急に回りだした。

逆に言えば、ぼくに何をしゃべっても「失う」ものはない。もう街そのもの、仕事そのものが、すでに「過去」なのだから、誰かに迷惑がかかるのではないかという心配もない。

それと同時に、自分たちに対して「浄化」という言葉を使った人々や行政に対して、言葉にならない「怒り」があった気がする。

行政や警察との対立は数十年続いてきたわけだから、「ついに来るべきものが来てしまった」とあきらめて白旗を揚げた人も少なくなかったが、数十年も仕事を続けてきて、いきなり「あなたの仕事は公序良俗に反するからもうやめなさい」と言われても、どうしていいかわからない。そういった苛立ちもずいぶん感じた。

そういう気持ちから、ぼくにいろいろな人を紹介してくれたのだと思う。人から人へつないでいってもらう手法は、ある意味で最も古典的なやり方だ。いったん街の内部に入ると、あとはおもしろいように人脈がつながっていった。

インターネットの中にはない「真実」

実は前回の日記で触れた「ブックス じのん」は真栄原新町の目と鼻の先にある。ネットで探している本もだいたい「じのん」にあった。店長の天久さんからは、ほんとうにいろいろなことを教わったけれど、沖縄の売買春街の歴史等については、天久さんもほとんどご存じなかった。

逆にいえば、生き字引きのような人があまり知らない世界というのは、取材する側にとっては「鉱脈」だ。「ブックスじのん」に通う中で手応えを得ていったという面もある。そういった中で得た情報はぜったいにインターネットの中にはない。

かつては――といっても数十年前だと思うが――何か1冊の本を書くことになると、まずは10万円持って東京の神保町に行き、なじみの古本屋に関連書物を集めるように依頼すると、本のプロたちが集めてくれたという話を、何かの本で読んだことがある。

『沖縄アンダーグラウンド』の最終章に書いた沖山真知子さんとの出会いも古本屋の書棚だった。彼女は地元作家で、高校時代をアメリカ占領下のコザ(沖縄市)で過ごして、字の書けない売春女性に頼まれて手紙を書いたりした経験を持っていた。

沖縄の「もう一つの戦後史」を記録した『沖縄アンダーグラウンド』

ひどい鬱を患った体験を記録した闘病記を出版したこともあった。それらは自費出版だったが、ぼくは沖山さんが住んでいた伊良部島に会いに行った。彼女はその島の出身なのだ。彼女の自伝のような本――自費出版――を見つけて、連絡をつけた。

長いインタビューをおこなったのは、ぼくが最後になった。というのは、ぼくのインタビューの後、体調を崩し、自殺をしてしまったのだ。

どういう最期だったのかは、死後しばらく、ぼくや彼女とつき合いのあった人にも知らされなかったが、最近になって、彼女の死の前の数カ月間の生活ぶりがわかってきた。米軍人と結婚した彼女の妹さんがアメリカに住んでいて、その妹夫婦に会うこともできた。

取材といえば、ハプニングというか、びっくりした出来事があった。びっくりした出来事があった。ある教育機関に勤めたことがある女性と、売買春店で知り合ったことがあったのだ。

彼女は自分の情報について隠していたが、その身分を知ってしまったのは、焼鳥屋で飲んでいたときだった。ぼくが「こんな資料ないかな」となんとなく話したら、彼女がかつての同僚に電話をかけて、これこれこういった資料はないか探してほしいとか頼んでくれた。

そのときに本名も知った。どこに所属していたかもわかった。彼女は一瞬「しまった」という顔をしたけれど、素性を打ち明けてくれた。

が、やはり餅は餅屋というか、彼女のネットワークで公文書館でもヒットしなかった資料を探し出してきてくれた。彼女は独身で、当時は教育機関は離れ、売春だけで生活をしていたようだった。

安くて美味い、予約の取れない人気店

【1月17日】先日インタビューしたRITTOさんがラッパーをしている「赤土」のスタジオへ、写真家のジャン松元さんと向かった。首里のマンションの一室だ。

そのあと「すみれ茶屋」へ行き、元NHK記者で『沖縄・国際通り物語━「奇跡」と呼ばれた1マイル』を書いた大濱聡さんと合流し、拙著に対する批評を聞かせてもらった。大濱さんのように沖縄の歴史について博学で、客観的な批評眼を持っている方の意見はとても参考になった。

大濱さんと別れ、栄町の「ルフュージュ」で、琉球朝日放送の島袋夏子さん、ジュンク堂店長の森本浩平さんと合流。店はいつも満席で、入り口のところに作られた立ち飲み用の場所で安いワインを飲む。

いわゆる元「おばあスナック」をリノベして、おしゃれな空間をつくり、美味しい料理を出す店の草分け的な存在といっていいだろう。中華出身の大城忍さんの料理はほんとうに美味くて、びっくりするほど安い。いまや栄町では予約が取れない店ナンバー1じゃなかろうか。

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