沖縄の空気は張りつめていた。私たちにできることは何か?(沖縄・東京二拠点日記 番外編)

沖縄の街に貼られていた「反対派」のポスター
沖縄の街に貼られていた「反対派」のポスター

沖縄と東京を往復する二拠点生活をするようになって10数年になる。沖縄では、米軍普天間飛行場の移設をめぐる県民投票が2月24日におこなわれ、名護市辺野古の埋め立てに「反対」という票が7割を超えた。それを受け、DANRO編集部から執筆の依頼があったので、沖縄の人々の間で「辺野古」の問題がどのように受け止められているのか、街で見た光景の雑感をまとめてみる。

辺野古の話題は飲み屋で口にしない

沖縄の飲み屋で、ぼくは政治絡みの話はなるべくしないようにしている。たとえば、辺野古云々やら県民投票云々をめぐって喧々諤々の議論なんてぜったいにしないし、誰かがおっぱじめても参加することもない。

ぼくはどうしてもメディア関係の友人・知人と会うことが多くなるのだが、話す必要があるときはなるべく小声で話すか、客がいないときにするか、あるいは、「しゃべっても大丈夫な店」を選ぶようにしている。店の主や客層が基地問題の議論に慣れている店とでもいったらいいのか。

でもそういう店はめったにないと思うし、ぼくがふだん行く店の中には一軒もない。ぼくの知る限り、かつては「土」と「瓦屋別館」という二軒があったが、主が亡くなり、閉店か、まったく別の店になってしまった。

「土」はゴウさんという移住してきた方が経営していた有名な店で(詳しくは、仲村清司さんの著書『消えゆく沖縄』をご参照あれ)、基地反対運動をしている人たちやメディア関係者が多かった。雑誌で有名なバーだったせいもあり、いろいろな人が来て、たまにそういった話題に端を発して険悪な空気になることがあった。

那覇市内の琉球新報社ビルに掲げられた「県民投票」の呼びかけ

「瓦屋別館」は先日、亡くなられた「噂の真相」元編集長の岡留安則さんが沖縄に移住してから開いたバーだった。ここには右も左もいろいろな政治的立場の人が来て、ときに喧嘩が起きることもあったが、岡留さんがいつもカウンターで飲んでいたせいだろう、そういったトラブルも包摂してしまう空気があった。

沖縄の人々はふだん「声」を押し殺している

ちょっと話がそれた。

いま「最前線」になってしまっている辺野古で地元の住民の人たちを取材したとき、友人や親類縁者同士でも、飲み会の席に限らず、その話題は避けるに決まっているだろうと口をそろえた。

辺野古区は、基地新設に手放しで全面的に賛成する人は少ないにしても、条件付きで容認する人、真っ向から反対運動をしている人、迷っている人など、さまざまな人たちが生活している。だが、選挙などでは容認派か反対派か、どちらかを推すかはっきりしなければならない。だから人間関係の対立や分断、亀裂が生じてしまう。

地縁血縁などをベースにした共同体意識が強い沖縄では、いったん亀裂が入ると修復は難しいという。その亀裂は、ヤマトの側が押しつけた「基地問題」が原因であることを、私たちは強く自覚する必要がある。

辺野古のような雰囲気は沖縄全体にある。みな、口に出さないだけで、思いを胸に押し込んでいるとも思う。長年、アメリカと日本によってふりまわされ続け、利用されてきたという沖縄の歴史ゆえ、そのテの話にはかなり敏感な人が多いのは当たり前だ。もちろん個人差はあるが、沖縄でこの問題について何も考えていない人はいない、とぼくは思う。

今回の県民投票では、はっきりと「辺野古」についてノーという民意が示された。もちろん沖縄は政治的に一枚岩ではないが、多数の人がそう思っていることはまちがいない。「どちらでもない」が多くなると予想していた評論家もいたが、大間違いだった。

沖縄の空を飛ぶ米軍ヘリ。いつもの光景だ

ふだんは声を押し殺している人が圧倒的に多いというだけだ。くりかえすが、声を押し殺させているのは「日本」の側だ。

評論家ぶって議論する「内地」から来た人たち

だから、飲み屋で内地からやってきた人がそのテの議論を沖縄の人にふっかけたり、訳知り顔で話したりしている光景は、沖縄の人にとっては不快極まることだと思う。きっと、他人事のように話していると見えるだろう。

今回も内地からやってきたメディア関係者や活動家が、県民投票で「反対」「賛成」「どちらでもない」のどれが多くなるのかを評論家ぶって話している光景を何度か見た。横で飲んでいた地元の人の耳にも、その議論が耳に入っていただろう。ぼくは彼の表情が気になって仕方がなかった。

ぼくはこれまで、飲み屋にいた沖縄の年配の男性が、内地から来て沖縄に思い寄せる、いわゆる活動家のような人に向かって、「ヤマトから来たオマエに何がわかるのか」と吐き捨てるように言うのを何度か見たことがある。

言われた側は、沖縄の味方のつもりなのに、なんでそんなことを言われなきゃいけないの?とあっけにとられた顔をしていたが、その年配の男性の厳しい言葉は「じゃあ、内地であなたは何をするのだ」という問いかけに思えた。単なる酒場の喧嘩で済ませてはならないものが潜んでいるような気がした。

沖縄の思いをカネの力でねじふせてきた為政者たちは、私たち内地の有権者が選んだ者たちだ。沖縄の声に耳すら貸さない「私たちの代表」を通じて、私たちは「沖縄差別」に加担してしまっている。そこを強く意識して、各々の足元でできることを考えていくべきだろう。

那覇市の第一牧志公設市場はいつも通り、海外からの観光客でごった返していた

沖縄の抵抗の仕方から学ぶべき

沖縄はアメリカ世とヤマト世の歴史の中で、いつも直接民主主義的な運動を巻き起こすことによって生きる権利を勝ち取ってきた。現在おこなわれている「辺野古の海に行き実力阻止をする」「基地の引き取り運動をする」という行動や今回の県民投票も、そういった流れの中にあるとぼくは解釈している。

誤解をおそれずに言えば、間接的な民主主義にあまり期待をしていない――それは聞く耳すら持たない日本政府への不信と直結する――沖縄の人々の「自分たちの生きる権利は自分たちの手で勝ち取る」という思想なのではないか。ぼくたちは、そういった沖縄の抵抗の仕方からもっと学ぶべきなのだ。

一方で、沖縄は怒ることに疲れている、ともぼくは思う。どれだけ怒ればいいんだ、と沖縄の人たちは嘆息している。「沖縄はもっと怒れ!」ということを言うような人はきっと、「怒り疲れ」をわかっていない。さきの「どうせヤマトにはわからん」という言葉の中にはそういう強い皮肉も込められている。毎月、一定期間を沖縄の自宅で暮らす二拠点生活をしながら、ここ数年はとくにそう実感する。

ぼくは県民投票の直前まで那覇にいたが、当日は名古屋で仕事があり、沖縄を離れなくてはならなかった。それでも街を歩くと、投票で「反対」にマルをつけることを呼びかけるポスターが電柱に貼られ、市民団体などが拡声器をつけたクルマで走り回っていた。それをあからさまに邪魔しようとする右翼の街宣車も走っていた。

沖縄の空気は張りつめていた。この張りつめた空気を少しでもやわらかい、本来の沖縄のそれに戻すために、私たちにできることを考えるべきだ。

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