僕の町が海と化した――豪雨に襲われた倉敷市真備町で泳ぎながら見たもの

倉敷市真備町の土手に立ち、自宅の方向を眺める横溝猛さん。豪雨で水に覆われた土手と自宅の間を泳いだ
倉敷市真備町の土手に立ち、自宅の方向を眺める横溝猛さん。豪雨で水に覆われた土手と自宅の間を泳いだ

西日本各地で水害や土砂崩れなどの甚大な被害をもたらした、7月上旬の集中豪雨。死者は15府県の224人にのぼり、未だ12人の安否がわかっていません(7月22日現在/朝日新聞報道)。特に被害が大きかった岡山県倉敷市真備(まび)町地区では、小田川とその支流で計8カ所の堤防が決壊し、濁流が町を襲いました。

この記事を書いている私自身も、倉敷市民です。私の近所では大きな被害はありませんでしたが、真備町にはたくさんの友人・知人がいました。いつもお米や野菜を分けてくれる農家さん、娘のお稽古事の先生、夫の同僚……。被災直後の数日間は、携帯もほとんど真備町へは通じず、何度も電話をかけました。安否は確認できたものの、現地からの声は緊迫し、情報も錯綜(さくそう)していました。

大切な人たちが被災しているのに現地の状況がわからない苛立ちと、安易に被災地域へ行って邪魔になってはいけないという逡巡(しゅんじゅん)。悩みながらも私は真備町へ足を運び、微力ながら片付け作業を手伝い、支援物資を届け、その合間に少しずつ、住民の方から話をしてもらえるようになりました。

なかでも強く印象に残ったのは、真備町で生まれ育った団体職員・横溝猛さん(34)の話です。横溝さんが語ってくれたのは、辺り一帯が海と化した町で両親を探すため、ひとりで泥水の中に飛び込み懸命に泳いだという、あまりにも過酷な体験でした。

災害が起きたとき、どのような判断が正解なのかは、簡単には決められません。横溝さんは「一歩間違えば二次被害に遭っていたかもしれないし、感染症の危険性もある。決して真似はしないでください」と釘を刺しつつ、今回の経緯を語ってくれました。

集中豪雨のときの凄絶な体験を語ってくれた横溝さん

両親を「泳いで探した」横溝猛さんの話

豪雨が襲った7月6日、僕は岡山市内の職場で夜勤をしていました。僕の家は真備町の川辺という地区にあります。地名の通り、高梁川と小田川に挟まれた場所だったので、近所に住む両親(60代)はいったん、比較的高い場所にある親戚宅へ避難していました。

ところが23時半ごろ、隣の総社市でアルミ工場が爆発しました。その爆風で親戚宅の窓ガラスが割れたんです。「ミサイルが落ちたんか!?」と思うほどの衝撃だったそうです。それで両親は、親戚宅から僕の家へ移りました。その時点ですでに膝の高さまで水が来ていて、車での移動はできない。避難所へ行くのが難しい状況で、平屋の両親宅より2階建ての僕の家の方が安全だろうと判断したそうです。

僕は電話で、両親と連絡をとりました。「水が家まで入ってきて、階段を1段1段上がってきよる!」と緊迫した声でした。これは大変なことになるかもしれない、携帯の充電が命綱だ。そう思い、以後はLINEで必要な用件だけを1通にまとめて送り、既読がつけば「生きとるな」と一瞬安堵する、という繰り返しでした。父にはLINEで「2階も危ないなら屋根の上に出るしかない」と伝えました。しかし庇(ひさし)が邪魔をして上れず、天井を破ろうとするなど、いろんな方法を試したようですが、結局、屋根には出られませんでした。

浸水した横溝さん宅の1階

水没した故郷・真備町へ向かう

岡山市内の職場も、夜半には敷地内に水がジャバジャバ来るほどになっていました。利用者さんを2階に避難させ、何とか7日の朝を迎えました。僕の妻と子ども2人は、玉野市内の妻の実家に行っていたため、朝10時に夜勤を終えると、僕も玉野へ行きました。そこでテレビを見たとき、初めて、水没した真備町の姿を知ったのです。この中に親がおる――胸が押しつぶされそうでした。

妻には心配をかけないように「ちょっとガソリン入れてくる」とだけ伝え、僕は車で真備町へ向かいました。途中で、浮き輪2つとカッパを購入。店員さんに事情を話すと快く、空気の入った展示品の浮き輪を売ってもらえました。その後、同じ地元出身の旧友と合流しました。危ないからと最初は断ったのですが、「俺の親も真備におるんじゃ!」と言うので、一緒に行くことにしたんです。後から振り返ると、彼と一緒に行って本当によかった。僕一人だったら、何もできなかったと思います。

普段なら、玉野市から真備町までは車で1時間ちょっとで着く距離ですが、その日はあちこちで通行止めや土砂崩れが発生していました。道路の先が冠水していたり、土砂に車が埋まっていたり、何方向からもトライして必死になって真備町へたどり着くと、もう14~15時ごろになっていました。そこで目にしたのは、まさに海でした。僕の生まれ育った町が水に浸かっていたのです。

川辺橋付近の土手を拠点に、消防の人たちがボートで救助活動をしていましたが、ボートが通れる大通りの方にしか行けていないのがわかりました。自宅のある地域は、土手からは見えません。住宅密集地もあるため、ボートでは難しい。泳いで行くしかないかもしれない。そう思いました。

階段を1段ずつ、押し寄せた水がのぼってきた

恐怖を感じながら、泥水をかき分けて泳いだ

7月の暑いさなかでも、水に足を入れるとヒヤッと冷たい。自分も一緒に行くという友人を説得し、「2人で溺れたらおえん(=いけない)じゃろ! ここで待っとってくれ。俺の身に何かあったら妻に連絡を」と、携帯を託しました。

海と化した町を前に、圧倒的な恐怖がありました。犬死にするかもしれない。足がすくみました。ここで、「電池が切れませんように」と賭けるような気持ちで、父に電話をかけたのです。すると父につながり、「水が胸まで来とる!」と言う。それは、今までに聞いたことのない声でした。ああ、最後だ。そう思い、覚悟を決めて泳ぎ始めました。

幸いにも水はよどんでいて、流れはほとんどありませんでした。浮き輪を両脇に抱え、平泳ぎでゆっくり進んでいきました。屋根や電線、木々などで自分の目線からは遠くが見えず、先が途方もなく遠く感じられました。「これは何かのトレーニングだ」と思うことで、恐怖心をごまかしていました。

しばらくすると、「おーい!」と呼ぶ声が聞こえました。「わしゃあ糖尿病で、薬が切れとんじゃ!」と切迫した声で叫ぶ老夫婦が見えました。すると次々に、窓から身を乗り出す人が見え始めました。

この地域からは、レスキュー隊の姿が見えません。住民たちは「自分たちは取り残されているんじゃないか」と不安になっていたようです。南向きに窓がついている家が多く、そこから一生懸命身を乗り出しているのですが、救助隊のいる場所が北側にあるため、お互いの姿が見えないのです。

救助ヘリも頭上を飛んでいましたが、通り過ぎて行くばかりで、孤立感を募らせていました。後から聞いた話だと、他の地域は激流になっていてボートが出せなかったため、そうした地域を優先的にヘリで救助していたようです。

僕は会う人ごとに「レスキューは土手まで来とる! ここに人がおることを必ず伝えるけぇ!」と叫んで伝えました。約束しかできない自分の状況を、とても歯がゆく思いながら……。住民からも「そこに電線があるぞ」「車もある」「気をつけて!」等と声をかけられ、その声には本当に励まされました。

1階の天井を水が突き破った

取り残された両親との再会

僕の両親は、2階の窓枠につかまって、半身を乗り出していました。父からは「なんで来たんじゃ」と言われたような気がしますが、正直なところ、そのときのやりとりはよく覚えていません。

最初は親を探すために泳ぎ始めたのですが、こんなに多くの人がこの地域に取り残されているとは思っていませんでした。そのことに圧倒されて、困惑していました。赤ちゃんがいる家もありました。でも、担いで泳ぐわけにもいきません。2つしかない浮き輪をどうするか。近くの家にも渡そうとしましたが、「年じゃけぇ、浮き輪で泳ぐなんてとても無理じゃ」という方もいました。

親だけが助かればいいわけではない。一人浮くことができれば、そこから何とか芋づる式にみんなも助けられるかもしれない。そんな思いでした。細い細い紐で、一縷(いちる)の希望をつなぐ感覚で、浮き輪を親に託しました。父は「お前が持って帰れ」と言いましたが、片道を泳いでみて、僕はこの浮き輪がなくても戻れるだろうという感触がありました。

そして、ここにこれだけの人がいることを、必ずレスキューに伝える。それが自分の役目だ。そのことを強く心に誓って、家を背に泳ぎ始めました。

途中、川辺小学校の前も通りました。ここは避難所にはなっていませんでしたが、たくさんの住民が逃げてきていました。2階まで完全に水に浸かり、3階から手を振る人たちが見えました。「そっちに何人おる?」「70数人じゃ」「必ず伝える!」。そんなやりとりをしました。

横溝さんの両親は、2階の向かって左側の窓から半身を乗り出していた

レスキュー隊にすべてを伝えた

泳ぎ始めた自宅からレスキュー隊のいる土手まで、直線距離で600メートルほどですが、僕にはとても長く感じました。戻って陸に上がると、両足がつっていることに気付きました。あまりの寒さにガタガタと震え、急いで車に乗って暖房をつけました。
服はTシャツに長ズボンでしたが、裸で泳ぐより寒さは幾分マシだったようです。靴下を履いていたことも正解でした。漂流物や屋根瓦を足台にすることもあったので、裸足だと危なかったと思います。

そして、レスキュー隊にすべてを伝えました。まずは赤ちゃんがいること。それから、どこにどんな人がいるか、どう行けばボートが通れそうか。素人の僕の話を真剣に聞いてくれたのが、本当にありがたかった。

僕と交代するように、今度は友人が泳いで行きました。自宅の2階から釣り用ボードを探してきて、それをこいで親戚を1人救出することもできました。

しかし、そのころにはもう日が暮れていました。友人とも「明るいうちが勝負だ、暗くなったら切り上げよう」と決めていたので、結局その日は玉野へ帰ったのですが、その晩は、何とも言えない気持ち悪さに襲われました。助けを求めるたくさんの人を見た。親にも会えた。でもまだ助けられたわけじゃない……。悶々としながらも、いつの間にか眠っていました。

翌8日、目を覚ますと、朝日が差し込み、妻の足音が聞こえ、いつもと何も変わらない朝でした。これは夢なのか現実なのか、目の前の光景を受け入れることができず、しばし呆然としていました。そんな中で突如、携帯が鳴りました。その電話で両親が救出されたことを知りました。

横溝さんは仕事で、岡山県内の精神障害者のフットサルチームを多くの人とともに率いていた。筆者が片付け作業の手伝いに行ったとき、この募金箱が泥をかぶらないようにそっと家の隅に出されていた

見えないストレス、真備町への思い

その後の2日間ほどは、錯乱状態だったかもしれません。もともとお酒は苦手だったのに、飲まないと眠れない。2~3時間ごとの細切れの睡眠しか取れませんでした。被災した家の片付けをしかけて、熱中症気味になってしまったこともあります。そこからは意識的にペースを落とし、酒もやめました。

ここ数日、僕が感じているのは、真備町からあまり離れない方が、気持ちが楽なのかもしれないということです。現在、玉野市や岡山市から真備町に通う日が続いていますが、普段通りの生活を送れている地域とのギャップが、僕にはとてもえらい(=しんどい)んです。誰が悪いわけでもないのですが、気持ちがついていけません。

真備で片付けをしていると、みんなで声を掛け合って、助け合っているのを感じます。僕は真備で生まれ、真備で育ちました。30年以上見続けてきた景色が一変してしまった。この気持ちを言葉にするのは、まだ難しいです。

自宅は、解体を避けられないかもしれないけれど、できることなら僕はもう一度、ここに家を建てて住みたい。「なんでこんな水害があった場所に」と思われるでしょうね。でも、真備を離れることは考えられない。今はそんな気持ちです。

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黒部麻子 (くろべ・あさこ)

1981年東京都生まれ。大学を5年かけてなんとか卒業したのち、出版社勤務。2012年に岡山県に移住し、フリーランスに。趣味は野草茶づくり、保存食づくり。狩猟採集生活が理想。女子プロレスと新書が好き。

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