組にやっかいになっていたときの話~元たま・石川浩司の「初めての体験」
これはあまり人に話したことがないのだけれど、今回はぶっちゃけてしまおう。
実は若い頃に、組にお世話になっていたことがある。
高校を卒業したものの、大学受験に失敗した僕は少しヤケになっていたのかもしれない。終日(ひねもす)ひとりでバイクを疾走させていた僕に、ちょっと悪い友達から「暇してるなら、近くにある組をのぞいてみないか」と誘われた。
年齢的にもいろんなことに興味のある年頃である。それはそれで見たことがない面白い世界かと思ってしまった。
いつの間にか正式な組員に
僕は友人と、少しビビりながらも意を決してその組を訪ねてみた。
若い衆が何人かいて「ちょっと興味があるので来てみました」と要件を伝えると、「・・・入んな」の声。そしてちょっと話を聞いているうちに、あれよあれよという間に、正式な組員になってしまった。
そこは全国に数百人は構成員のいる、そこそこの規模の組織だった。
本部が近くにあったため、新入りでは簡単には会えない親分に直接食事をおごってもらうなどして、あっという間に取り込まれていった。
時々のぞく事務所では、若い衆がいつも動き回っていて、僕らも全国の支部に連絡を取ったりしていた。
幹部の中には、インドネシアまで行って、現地でしか手に入らないものをこっそり持ち込む者もいた。祭りの時期は、ちょっと古臭いバナナの叩き売りやガマの油売りなどのテキ屋の口上が聞こえてきた。
僕のルーツはここにあった
組の名は、芸能山城組。
芸能山城組は一般的には大友克洋の映画『AKIRA』の音楽などで知られ、また別のアルバムでは日本レコード大賞の企画賞を取るなど、その独自な音楽性で現在も活動している音楽集団だ。
僕は浪人生だったのだが、当時茨城県の谷田部町(現・つくば市)に住んでいて、友人が筑波大生だったため、近くの筑波大学によく遊びに行っていた。その友達が「筑波大に風変わりな合唱サークルがあるから、お前も入らないか?大学生じゃなくても平気なようだよ」と誘われたのがきっかけである。
芸能山城組は、音楽と舞踏と演劇が一緒になったカオスな芸能が特徴で、インドネシアの「ケチャ」を世界で初めて現地に行って解明し、それを再現することで、民族音楽研究者から絶賛されたりもしていた。
僕も上半身裸になって民族衣装をまとい、ケチャの複雑なコーラスリズムパターンを習い、公演を行っていた。実は初めて太鼓を習ったのもここだ。日本の伝統音楽をアレンジした曲を演奏することになり、太鼓を教わったのだ。これが後に、僕がパーカッショニストになる基礎になるとは、この時は知るよしもなかった。
集団に馴染めず脱退
ただ、ここには1年間もいなかった。それは自分の資質を思い知ったからだ。
みんなで同じ動きをする集団は、自分には向かなかった。不器用ゆえ、どうしても他の人と合わせるのが下手で、苦手だったため、個人として勝手気ままに動く表現活動をすべきだと、強く感じたのだ。
そこで芸能山城組を脱退した後に上京し、ひとりで作詞作曲をし、シンガーソングライターとしてギターの弾き語りを始めた。そして、都内のライブハウスのオーディションを受けまくった。
当時はニューミュージックが全盛だったが、僕はアングラな歌詞をちょっと演劇調で歌うスタイルだった。それに興味を持ってくれたのが、その後「たま」や「パスカルズ」、「ホルモン鉄道」で一緒に活動することになる仲間たちで、長い長い付き合いのはじまりだった。
もしも芸能山城組での活動がなかったら、自分の活動の方向性を見つけるのにもっと時間がかかったかもしれない。音楽で、糊口(ここう)をしのぐことができたのも、山城組での経験があったからかもしれないのだ。
僕が集団というものに馴染めなかっただけで、芸能山城組がやっている活動は今でも素晴らしい。機会があったら、僕のルーツのひとつとして、ぜひ観に行ってほしい。