「同性愛者も子どもを持つ選択肢を」 新しい「家族の形」を模索するゲイ男性の半生

性的少数者であるLGBTの人たちが子どもを持つ動きがじわりと広がっています。「養育里親」として、子どもを引き取って育てるゲイのカップル。知人男性から精子の提供を受けて、人工授精で子供を授かるレズビアン。その形はさまざまです。

ゲイであることをカミングアウトしている金谷勇歩さん(40)も、そうした「子どもを持つLGBT」の1人です。レズビアンの知人女性Aさんに精子を提供して、この11月に子どもを授かりました。生まれたばかりの子どもは、母親であるAさんとそのパートナーの女性のもとで育てられる予定ですが、金谷さんも、保育園に送迎したり、週末に預かったりして、子どもと関わりを持っていきたいと考えています。

ゲイとして生きる金谷さんが、このような選択をしたのはなぜでしょうか。ある出来事がきっかけだったといいます。ゲイとして悩みながら、新しい「家族の形」を模索する金谷さんの半生に迫ります。

ゲイの自覚と絶望

静岡県浜松市出身の金谷さんは、大学進学をきっかけに上京しました。大学卒業後は、横浜市の福祉関係の会社に就職し、いまも勤めています。そんな金谷さんが、同性愛を自覚したのは、小学生のころでした。

「小学校高学年くらいのとき、普通は女の子を意識することが多いじゃないですか。でもクラスの男の子を意識していたんですよね」

初恋の相手は同級生だったという金谷さん。勉強も運動もできる人気の男子でした。しかし、当時の金谷さんは、自分がおかしいのではないかと不安を感じていたといいます。「当時はインターネットもなく、同性愛に関する情報を手に入れる術がありませんでした。家族にも、誰にも言えず、情緒不安定でした」。

家族とのコミュニケーションもうまく取れず、寂しさや孤独を感じていました。それに加えて、誰にも相談できない「同性愛」の悩みが重なり、世の中からの疎外感を覚え、自殺を考えたこともあるといいます。

「絶望を感じていました。このまま生きていても、辛いことばかりだから、窓から飛び降りようと思ったことが何度もあります。ゲイとして生きて行く道筋が全く見えなかった。世の中には、おかしい人間は自分ひとりしかいないと思っていました」

小学4年生のころの金谷さん

クリスチャンの家系

金谷さんが同性愛について悩み、自己否定をした原因の一つに彼の家系があります。敬虔なクリスチャンの家に生まれた金谷さん。祖父は、キリスト教の教えに基づき、日本で初めてホスピスや老人ホームを作るなど、どこにも行き場のない人たちのために生きた人でした。

金谷さんは、キリスト教の教えに触れるなかで、同性愛者が歓迎されていないことを肌で感じていたといいます。

「聖書にあるモーゼの十戒には、『汝、姦淫するなかれ』とありますが、この教えに背いている感覚がありました。ゲイは『あってはいけない存在』という感覚です。そのため、同性愛者という自分を受け入れることができませんでした」

告白できない苦しみ

中学に進学すると、バレーボールを始め、部活動に熱中しました。中学2年生のときに、同級生の女の子に告白され、付き合ってみましたが、1カ月ほどで別れてしまいます。

そのころの金谷さんには、本当に好きな人が他にいたからです。バレー部の男子の先輩でした。家が同じ方向だったため、部活後によく一緒に帰っていました。しだいに惹かれ、気がついたら好きになっていました。

「きっと好きなんだな、と思いました。その気持ちがどんどん強くなっていって。同性が好きだという現実を突きつけられるんです。気持ちを伝えたいと思いましたが、伝える勇気も自信もなかった。自分が同性を好きなことを知られるのが怖かったんです。拒絶されることよりも、知られることのほうが怖かった。自分らしくいられなかったのが辛かったです」

中学生のころの金谷さん。バレーボールに熱中した

アメリカ留学と初めてのカミングアウト

その後、高校に進学。バレーボールに熱中していた金谷さんは、地元の強豪校に入学しました。しかし、コーチに反発して、1年生のときに退部してしまいます。エネルギーのぶつけどころがなくなった金谷さんは勉強に没頭し、結果的に思わぬ活路を見いだすことになりました。

「エネルギーを費やすものがなくなり、それを勉強に向けていたら、高校で1番の成績になりました。成績優秀者は留学制度を使うことができるので、アメリカに1年と2カ月、留学することになったんです」

留学先は、ワシントン州の公立高校。アジア人というだけで、差別を受けたこともありますが、大きな学びもありました。グループワークの授業では、自己主張しないと周りから認められません。それまでは引っ込み思案な性格でしたが、自分が考えていること、思っていることをしっかりと伝えることができるようになりました。

アメリカの高校で好きな人ができた金谷さんは、思いを告白する決心をします。放課後に好きな人を呼び出しましたが、結局その場には現れず、告白できずじまいでした。しかし、そのときに勇気を出して、告白を決心したことが、その後の成長につながったといいます。

「告白は未遂に終わりましたが、好きな人に思いを伝える決心ができて嬉しかったです。新たな扉を開いた気がしました。何年も抱えてきた苦しみから、少し救われた気がしました。きっと初めて自分を受け入れることができたんだと思います」

帰国後は、親友の女性に同性愛であることを伝えました。初めてのカミングアウトでした。「友達はすんなり、『あ、そうなんだ』と受け入れてくれました。すごく救われました。18年間ずっと自分のなかに押し殺してきたものを他人に初めて伝えることができて、安堵感がありました」。

アメリカの高校に留学していたころ

家族に同性愛を伝える

帰国後は上京して、明治学院大学の社会福祉学科に進学。マイノリティ研究会に所属します。活動の一環で、ゲイの人に体験談を話してもらう講演会を開いたこともありました。

そんな大学時代に、金谷さんの人生を揺るがす出来事がありました。20歳の誕生日に西麻布のクラブのゲイイベントに参加し、そこで話しかけた人と仲良くなりました。初めてゲイの友人ができたのです。

「すごくドキドキしながら、隣にいた人に話しかけました。そこでブワッと世界が広がっていきました。仲良くなって、意気投合して、朝まで話し込んで、初めて共感できるゲイの友人ができたんです。その人とはいまでも親友です」

この出会いをきっかけに、同性愛者が集まる「新宿二丁目」に通うようになります。そこで初めて同性の恋人ができました。バーで出会ったロシア人男性でした。金谷さんは、恋人ができたことを両親に伝えようと、カミングアウトをする決心をします。

「20歳の夏休みに実家に帰り、『どうしても話したいことがある』と言って、同性愛者であること、付き合っている男性がいることを伝えました。母親の第一声は『あなたが誰を好きだろうと、愛する息子ということは変わらない』というもので、両親とも受け入れてくれました」

両親との心理的な距離は縮まり、このころから家族との関係を大切にするようになりました。結果的に、カミングアウトは「家族関係の再構築につながった」といいます。

「父親は家に帰る途中に、同性愛に関する本を買って帰り、『偉人にはゲイが多いから息子は天才かもしれない』と母に話したそうです。兄貴には電話で話して、すんなり受け入れられました。それまでは、家族に大事なことは伝えられないという感覚があったけど、本当に大事なことを伝えることができて嬉しかったです」

大学の卒業式で

新しい「家族の形」

大学卒業後は、前述したように福祉関係の企業に就職しました。ゲイということは広く公表していませんが、信頼できる上司や同僚には伝えています。最近では、LGBTについて学ぶ社内研修を行いました。

プライベートも充実し、様々な恋愛を経験しました。公私ともに順調でしたが、28歳のときに肝臓を壊し、入院することになります。そのときに、「死ぬかも知れない」と思った金谷さんは、入院中に「死ぬまでにやりたい10のこと」を書き出しました。そこには、「子どもを育てて、家族を作る」と書いてありました。

「そのときに初めて、僕は子どもがほしいのだと気がつきました。ゲイは結婚できないし、子どもを持つ人もあまりいません。僕も知らず知らずのうちに、そういう選択肢を切り捨てていたのだと思います。だけど、本当は家族をつくることを望んでいると自覚したんです」

それから10年余りが経ち、ついにその願いが叶いました。知人の紹介で、子どもがほしいと思っているレズビアンの女性と知り合い、互いの希望やリスクなどを十分話し合った上で、妊活することを決断します。金谷さんが精子の提供を始めて、6カ月ほどで妊娠。この11月、無事に女の子が産まれました。

「今までの人生で感じたことのない種類の喜びでした。この世にこんなに愛おしい存在があるだろうかと。また、この子が産まれたことで、自分の存在が、過去と現在と未来につながっていると感じ、不思議な安心感を覚えました。覚悟をもって、子どもの人生を支えていきたいと思いました」

子育ては基本的に、母親とパートナーの女性のもとで行われますが、金谷さんは子どもの送り迎えをしたり、週末預かったりするなどして、子どもに関わっていくといいます。「僕のパートナーにも相談しました。彼は、僕の選択を理解して、受け入れてくれました。これからの人生を彼と子どもと歩んでいけたらと思っています」。

インタビューに応じる金谷さん

当事者として発信を続ける

複数のLGBT団体で活動する金谷さん。イベントを開催したり、母校で講演したりしています。今後も当事者として、活動を続けていきたいといいます。

「今年の春先、仲が良かったゲイの友人が自死しました。彼なりの生きづらさがあったんだと思います。LGBTに関する制度を変えるだけではなく、医療、福祉、教育など様々な分野で理解が進んでいかなければいけないと思います」

近年、性的マイノリティであるLGBTへの理解が急速に進み、当事者を取り巻く環境は変わり始めていますが、それでも差別的なメッセージを受け取ることがあるそうです。それどころか、当事者からの批判もあるといいます。

「当事者の多くは社会の中でひっそりと生きています。そうした人の中には、声高に権利を主張されるのは迷惑という人もいます。僕のパートナーも地方でひっそりと暮らしていますし、それぞれの生き方、考え方があると思います」

それでも活動を続けていくという金谷さん。制度を変えていかないと、命を失う人が出てしまうという実感があるからです。そして何より、家族を持つという夢を描いてほしいといいます。

「LGBTの若い子たちは、子どもを持って家庭を作るということを諦めている人が多いと思います。確かに制度上は同性間の結婚が認められていません。だけど、大切な人と一緒にいることはできるし、子どもを持つことだってできるのです。それを証明するためにも、自分の子どもが幸せに生きていけるような家族を作っていきたい。LGBTの当事者にもそういう選択肢があるということを知ってほしいと思います」

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