父と娘の「有馬記念」何度も復活した名馬と父の姿がダブって見えた
年末に行われる競馬の祭典「有馬記念」は、復活のレースともいわれる。オグリキャップやトウカイテイオーなど、名馬による感動的なシーンが幾度となく繰り広げられてきた。
私にとって印象的なのは、亡き父と一緒に観戦した1998年のレースだ。
もう終わったと言われた馬がみせた「復活劇」
「グラスワンダーだ!」
4コーナーを回って栗毛の馬体がまっすぐに駆けてきた。先頭にいたセイウンスカイを抜き去ると、そのままゴール版へ――
20年前、有馬記念が終わったばかりの中山競馬場の片隅で、よし来たー、と父が叫んだ。
「単、複、枠連に、メジロブライトとの馬連も」と言いながら、馬券をこちらにさしだした。
グラスワンダーは有馬の前年、注目の外国産馬として華々しくデビューし、朝日杯をレコード勝ちした。だがその後、骨折して休養。秋に復帰したが、精彩を欠いて「あの馬はもう終わった」と噂されていた。有馬制覇は文字通りの“復活劇”だったのだ。そんな馬を軸にした父に「なんで買ったの?」と聞くと、「強いからさ」という声が返ってきた。
競馬場の帰りに、父と一緒に焼き肉を食べた。私自身は負けたが、久しぶりに見る父の笑顔が嬉しく、美味しい晩餐となった。
父は昔から馬が好きで、私が中学生の時に「馬に乗るといい、きっと好きになる」と乗馬学校に突然入学させた。気が乗らないのを馬が察知したのか、私は何度目かのレッスンで地面に振り落とされ、しばし入院した。以来、恐怖から馬に関心が持てなかった。
ところが、30歳を過ぎたある日、父に誘われて行った競馬場でサラブレッドを間近で見て、馬ってこんなに綺麗だったっけ、と黄金色のたてがみに見とれてしまった。おまけにビギナーズラックで万馬券が当たり、わくわくした。やはり父の血が流れていたのだろう。
父は脱サラして自営業をしていた。馬が好きすぎて競走馬の管理にも携わり、勝ち馬の写真を部屋に飾っていたこともある。だが、事業はあまりうまくいかず、生活が苦しくなった。それでも、100円でも楽しめる、と競馬を続けた。
「父娘そろってしょうもない」と母にあきれられたが、「次はどの馬が来ると思う?」がいつからか父娘の合言葉になった。ワンコインで夢を見られるというのが、競馬の魅力だった。
厳格な面もあり、若い頃には口を聞かなかったこともある父と、ギャンブルで“馬が合う”とは思いもよらなかったが、競走馬の調教のテレビ放送を一緒に見ながら、スポーツ紙を広げてあれこれと予想をするのが楽しくなった。厩舎や騎手や馬の脚質のことを父は熱心に教えてくれた。
馬の走る姿が「生きる力」になった
70歳の冬、父の内臓にがんが見つかった。2001年のことだ。知人が見舞いにくれた1万円を入院中の父に渡すと、「人生最後かもしれないので、次の有馬で単勝につぎこむ」という。狙いはアメリカンボス。私はウインズに馬券を買いに行き、病院のテレビで父と観戦した。
“病気が治りますように”と願掛けしたが、結果は2着。しかし父は落ち込むどころか、「このままでは死ねない」と強く言った。その言葉通り、父は生き続けた。
何度もがんは転移したが、父はそのつど治療を受けて、危機を乗り越えた。たとえ月曜に抗がん剤でダウンしていても、日曜が近づくと不思議と元気になり、見舞いに行くと売店で買ったスポーツ紙がベッドに広げてあった。馬の走る姿が生きる力になっていたのだ。
がんの寛解時には、2人で競馬場にも繰り出した。並んでパドックで馬を見ながら、時間が止まればな、と思った。仕事で挫折しても、がんに罹患してもへこたれない父が、私は好きだった。
「競馬は記憶が大事」と父はよく言っていたが、80歳を越えてから、ひどく忘れっぽくなった。「何年の何のレースの勝ち馬は?」などゲームのように出すと、間違えることが増えた。だが、少し前のレースは忘れても、一緒に見た1998年の有馬記念の勝ち馬はよく覚えていた。
グラスワンダーは怪我を繰り返しながら、翌99年の有馬も勝った。後から知ったことだが、グラスワンダーに届いたファンレターには、身体に障害を抱える人や、余命の宣告を受けた人からの「グラスワンダーが頑張っているうちは自分も頑張る」という内容のものが何通もあったという。
私の中で、何度も復活したグラスワンダーと父の姿がいつしかだぶるようになった。
長い闘病生活をへて、父は4年前の初冬、永遠の眠りについた。
棺には、馬のぬいぐるみと、スポーツ紙の競馬欄をしのばせた。そして出棺直前の父の耳にスマホをあてて、中山競馬場のファンファーレを流し、送り出した。
じゃあねパパ、いってらっしゃい…。
その年の有馬記念は、父が「出たら応援する」と言っていた牝馬のジェンティルドンナが勝利した。なんだかちょっと、嬉しかった。
今年もまた有馬記念の季節になった。父が生きていたら、どの馬を応援するだろう。きっと天国から、目を輝かせて見ていることだろう。