オランダに飛び出した「家系ラーメン」 風車でひいた粉で作る「日本発の味」
「世界は神によって作られたが、オランダはオランダ人が作った」
そんな格言がオランダにあります。13世紀以降の干拓事業によって、国土を作り上げた歴史に対する、オランダ人の自負がこめられた言葉です。
実際、その痕跡の一部は「風車」という形でオランダの生活と風景に見ることができます。多くはその役目を終えていますが、中には現役の風車もあり、静かに人々の暮らしを支え続けています。
風車で挽いた粉からラーメンを作っている日本人がいる、とオランダ人の友人に教えられて訪れたのは、オランダ南西部の町スキーダム。ヨーロッパきっての港町ロッテルダムの西隣に位置し、風を動力にして粉をひく風車があります。
その粉から練り上げられた麺で、いわゆる「家系ラーメン」を出すのが「Yokohama ramen Saito/横浜ラーメン齋藤」です。
「クビになったのはベストタイミングだった」
店主の齋藤俊海(さいとう・としみ)さんは、1975年生まれの横浜市港北区育ち。ラーメン好きの両親のもとに生まれ、商社、カナダでのワーキングホリデー、製麺会社等を経て、2016年にオランダに移住しました。
その年の6月。齋藤さんは勤めていたラーメン店を辞めました。より正確に言えば、クビになったのです。
「今思えば、店長の懐の深さに甘えてたんでしょう。自分としても真剣に取り組んでいたので、ラーメンに関わることでは一言モノ申すだけでは済まない部分がありました。ちょっと空回りしていたのだと思います」
新しい働き先を見つければいい、という単純な話ではありません。海外にも店舗を持つその店で働くことは、「海外でラーメンをつくる」という齋藤さんの夢への近道であり、店長との決別は、その夢への後ろ盾を失うことでもあったのです。
「明日から来なくていいから」
虚しく響く言葉を一掃するように、思案を巡らせました。41歳、ラーメン一筋で生きてきて、腕にはそれなりに自信がありました。積年の夢を叶えるなら今かもしれないなー
そんな矢先、偶然見つけたのが、あるWEB記事だったといいます。
1912年に締結された日蘭通商航海条約がまだ有効で、諸外国に比べ比較的簡単に事業を始められるという内容でした。
「ワーホリでカナダにいた頃、とある貿易会社の社長に気に入ってもらえて、数年働かせてもらうことになりました。が、就労ビザが降りず、泣く泣く帰国せざるを得なかったんです。ビザで苦労するくらいなら、言葉がわからない方がましだと思いました」
と同時に、かつてヨーロッパを放浪していたときに出会った友人に言われたセリフ(「オランダはいいよ。みんな英語話せるし、人は親切だ」)を思い出したそうです。
「今思えば、クビになったのはベストタイミングでした。プライベートでも元妻と離婚して、子供もいなかったんです。身軽になったので、自分の資金で自分のブランドを立ち上げようと決意できました」
ムスリム系移民が多く住むスキーダム市に開店を決意
2016年10月。ラーメン店を辞めた3ヶ月後にはオランダにいました。実に軽いフットワークです。
まず目をつけたのは、オランダはもとより、ヨーロッパ最大の港町ロッテルダム。家系ラーメンの魂とも言える豚を仕入れられそうな食肉加工場も見つけました。
ところで、日本各地に広まり、海を越えるほどの人気を得た家系ラーメンの元祖が「吉村家」だというのは、麺好きなら誰もが知っているのではないでしょうか。
その吉村家が生まれたのは、横浜市磯子区の新杉田。工場やプラントが密集し、製造業者やトラックの運転手が朝早くから夜更けまで働く街。そんな港湾労働者の町で生まれたのが、家系ラーメンなのです。
出店先を探す際、コンパクトで垢抜けたアムステルダムより、工場が並び船が行き交う港町のロッテルダムに惹かれたのは、齋藤さんが横浜生まれであるのと同時に、家系のホームタウンに通ずるものがあったのかもしれません。
「そうですね。せっかくなら港が近いところでやりたいと思っていました。ロッテルダム、ハンブルグ、マルセイユ、ジェノヴァ、エディンバラ……学生時代の地理の授業で聞いた港町は真っ先に頭に浮かびました」
食肉加工場はロッテルダムの隣町スキーダムとの境の問屋街にありました。スキーダム、という音の感じが気に入ったのだと振り返ります。
「学生時代はスキーに打ち込んでて、カナダでインストラクターもやってました。ああ、いい名前だなぁ、と思って。それでスキーダムに宿をとったんです。そうしたら、風車がたくさんあってまだ動いているのもある。おまけに粉をひいている風車もあるよと聞いたので、製粉の様子を見に行ったんです。粉を買って帰って、宿で早速、麺を作りました。するとなかなか美味しいものが出来て、いける!と思いました」
新天地は人口8万数千人、移民も多く住むスキーダムに決め、翌年6月には「Yokohama ramen Saito / 横浜ラーメン齋藤」をオープンさせます。スキーダム初のラーメン店、オランダ初の「家系」の誕生です。
「オランダの友人たちには猛反対されました。『イスラム教の人が多く住む地区で、豚骨ラーメンを売るなんて、そんな馬鹿な話があるか』と。でも、ちょうど安くていい物件を見つけて、ここしかないなと思ったんです」
もともとはピザ屋だった物件のため、ピザ窯やエスプレッソマシン、サラミスライサーなどをそのまま引き取ったものの、使うあてがありません。偶然、向かいもピザ屋で(というか近所はなぜかピザ屋だらけ)、そこのオーナーのハリルさんに譲ることになりました。
シリア出身のハリルさんは敬虔なイスラム教徒で、豚骨ラーメンはもちろん食べません。しかし親日家で人のいい彼は、ピザ窯やエスプレッソマシンをもらう代わりに、水道工事を始めとする内装工事を1ヶ月かけて手伝ってくれました。以来、お互いの仕事を手伝いながら、家族ぐるみの付き合いが続いています。
鶏オンリーの担々麺も登場、地域で人気に
開店当初は一日4人しか来なかった日もありました。しかし赤字を出す月は一度もなく、順調に客足をのばしていって、今では連日満席の人気店に。成功の秘密を聞くと「ラーメンのコンテンツ力の高さのおかげです」と謙遜してしまいました。
最近では、鶏肉の餃子や鶏オンリーの担々麺も提供しています。お客さんはもちろん、従業員にもイスラム教徒がいるといいます。
「初めは豚骨ラーメンとベジタブルラーメンだけだったんですが、1、2ヶ月後には鶏の担々麺を置くようになりました。というのも、たまたまスーパーで喋ったオランダ人のお兄さんに『豚は体によくなさそうだからあまり食べない』と言われたんです。数年前、豚の伝染病が流行ったみたいで、宗教的な理由はなくても豚に抵抗がある人もいるんだと初めて知りました。いまは豚骨ラーメン自体も、鶏スープの割合を高めて出してるんです」
齋藤さんが作るラーメンが地域の人々から支持されるのは、おそらくコンテンツとしてのラーメンの人気だけではありません。未知の食べ物に遭遇するオランダの人々の口に合うように、ワインで言うところの「テロワール的な発想」で、日本発のラーメンに土着のものをうまく組み込みながら再構築しつづけているからなのでしょう。
それにしても、家系のお膝元で修行してきた人間が、ラーメンのない街でラーメンをつくることは、一体どのようなものなのでしょうか?
「ラーメン店も情報もないここでは、どんなものを出しても『これが日本のラーメンだ』として受け取られます。皆さんが情報弱者であることへの甘えだったり、曲げられない信念だったり、自分のラーメンを出せる喜びや、時に自己満足だったり……いろんな思いが混じってますね(笑)」
ところで日本が美食の国と言われる所以は、もちろん和食の繊細さや滋味の深さもあるけれど、世界中の料理を手軽に楽しめることにもあります。本場ではない場所で、本場の料理に様々なアレンジを加えるなかで、その地で愛される名物となった例は数知れません。その陰にあった、先人たちの無謀な挑戦や自らのアイデンティティを揺るがすような葛藤はいかほどだったのでしょうか。
取材を終えた後、店から20mほど先の風車のもとで、齋藤さんを撮影することにしました。
橋に差し掛かるところで、車に乗ったハリルさんに遭遇しました。仲良さそうに短い挨拶を交わしたかと思えば、さらに近所に住むご婦人も話しかけてきました。オランダ語なので何を話しているかはわかりませんでしたが、店の常連さんなのだそう。
オランダの風が生み出した粉、パスタマシンを改良してできた製麺機、味覚や文化に合わせて柔軟な変化をとげたスープ、そして、この地で生まれたラーメンを楽しみにやってくる人々。
その様子を見ながら、ふと、街と人が ラーメンを作り上げるイメージが浮かびました。横浜の港湾地区で生まれた「家系ラーメン」の元祖がそうであったように。
シカゴで生まれたハウスミュージックが、聞き手と作り手によるミックスやアレンジの変遷を遂げて、ヨーロッパ、そして世界全土に広がったように、横浜で生まれた家系ラーメンも、もみくちゃにされながらも、海を越えて新たな「食の系譜」に連なろうとしているとしたら—。
そんな妄想にワクワクしながら、風車の下で”エア湯切り”をする齋藤さんに向かって、シャッターを切りました。