「この街に恋をした」震災ボランティアで訪れた石巻に「僕」は移住を決めた

東日本大震災から9年の月日が流れました。この未曽有の災害は、多くの人たちの価値観をくつがえし、生活を一変させました。東京に住んでいた原田豊さん(40)もこの災害で人生が大きく変わったひとりです。ボランティアとして宮城県石巻市に赴き、以来ずっと石巻で暮らしています。なぜ原田さんはこの街で生きていくことを決意したのでしょうか。

物資を満載した車で、ひとり被災地を目指した

2011年3月11日、三陸沿岸を震源とした東日本大震災は、東北沿岸部に甚大な被害を与えました。原田さんは震災以来連日報道される被災地の様子を見ているうちに「自分も何かできないか」と考えました。とはいえ情報は錯そうしており、なにより原田さん自身ボランティアの経験は一切ありません。もちろん怖さはありましたが、ニュースで語られる惨状は、原田さんの心を動かすには十分すぎました。

インターネットで活動場所を探すと、石巻市の情報に目が留まりました。ボランティア情報はほかの地域と比べ極端に多く、そのことが災害の規模の大きさを感じさせました。震災から20日ほど過ぎたころ、原田さんは仲間に託された物資とともに石巻へと向かいました。

「石巻のボランティアセンターに物資を届けた時点で肩の荷が少し下りたんですけど、街に出てみると、道端に漁船が転がっているようなひどい状況だし、物資管理のスタッフも『妹を亡くした』なんて言うんです。これはすごい場所に来てしまったなと思いました」

テントで生活しながら活動。原付も東京から持ち込んだ

いきなりリーダーに抜擢され、問題点解消に取り組む

原田さんは石巻に到着した翌日から作業を始めました。しかし現地は未だ混乱の渦中で、マッチング(ボランティアの振り分け)に1時間もかかる状態でした。そのため翌日は早めにボランティアセンターに向かい、前日一緒に作業したチームに合流しました。

「その日は大街道という地区に派遣されたんですが、他にもいくつかのチームが来ていました。その中のひとりが、メンバーをひとつのグループにまとめられないかと提案したんです。こうすることでボランティアセンターも仕事を出しやすくなり、マッチングでのロスもなくなります。決まったメンバーで同じ場所を集中的に作業できるので効率もいい。こうして”チーム大街道”というグループができて、僕もグループ内のリーダーのひとりに選ばれました」

原田さんはグループのまとめ役のひとりとして、チーム間の連絡や資材の移動などを担当しました。グループは社協との協力体制を確立するだけでなく、自由に使える資材も確保。ニーズ(ボランティアへの要求)の一覧も自分たちで管理できるようになりました。

原田さんは当初の予定通り、活動を2週間でひと区切すると東京に戻りました。東京の街はすっかり日常の落ち着きを取り戻していて、平静を取り戻していた地元の仲間との会話にもズレのようなものを感じました。

東京から物資を満載して走った愛車。現在も石巻で活躍中だ

東京への違和感と、石巻の心地よさ

原田さんが違和感を抱いた夜、駅の連絡通路を歩いていた際に気持ちを大きく揺さぶられたそうです。

「たくさんの人がいるのに往来するだけで何も生まれてない。それはずっと当たり前の光景だったんで、単に僕の見方が変わってしまったんです。もしこの人たちが声を掛け合い、困っていることを話し合えば、社会の難題が面白いように解決していく気がして、何かを取りこぼしている感覚に陥ったんです。被災地では小一時間泥の撤去をするだけで地元の人は泣きながら『ありがとう』と言ってくれる。励ましあったり、気遣いあったりしている場面しか見てきていないので、人と人との距離感が心地よくなっていて、30年も住み続けた東京にシラケちゃったんですよね。それと同時に、日本が変わるとしたら東北から変わっていくはずだという感覚が芽生えたんです」

そんな思いを抱えながら石巻に戻ると、チーム大街道は抱えきれないほどのニーズを抱えて意気消沈しており、空気を変えるためにもメンバーに対して嘘を言いまし た。「俺が帰ってきたからもう大丈夫!」。その時に原田さんは覚悟を決めたそうです。「もう東京には帰れない」と。

その後チームは「アモール石巻」に改称。自動車販売業を両立させながら活動する日々が始まります。やがて石巻でチーム名は広く知られるようにもなりました。 チームとして助成金を獲得すると、資材の購入に充てて活動の幅を広げたり、長期間活動できる人材にガソリン代を支給するなど、「ボランティアのためのボランティア」という立ち位置で活動し続けました。石巻市はボランティアを呼び込むことに成功した街ということもあり、半年後にはニーズも減少したため、アモール石巻は解散することになりました。

在宅被災者の支援を本格化

やがて石巻に仮設住宅が完成すると、これを機に多くのボランティアが仮設住宅のコミュニティ形成支援に取り掛かりました。ですが原田さんが活動していた大街道地区は津波の被害こそ受けたものの、壊滅的な被害を免れた住宅もあり、そこに住み続ける在宅被災者も少なくはありませんでした。

「支援団体やボランティアが仮設住宅に大挙して来始めました。でも僕はすでに大街道を最も把握する支援者として、困りごとは僕に聞けといった雰囲気になっていたんです。この地域の復興を支えるには、僕以上の適任者は居ないと言えるところまで来てしまっていたんです」

2012年4月、原田さんは一般社団法人「BIG UP石巻」を設立し、スタッフ5名でボランティアの受け入れや町内会のサポート、イベント開催といった在宅被災者への支援活動を本格化させました。同年8月には大街道にある民家を借り受け、ここを「たんぽぽの家」と名付け、団体の拠点として、そして地域の人たちが気軽に立ち寄れる場所とします。その翌年には別の場所に新拠点の「コスモスの家」も作ります。東京の自動車販売店はすでに畳んでいました。

「コスモスの家には近所の子どもたちが集まってきました。拠点を手作りする際に支援者や大学生らが参加したこともあり、遊んでもらえると思ったんでしょうね。しかし子どもたちはコスモスの家で終日遊ぶので、お昼ご飯を食べないといけません。どうせ僕たちも食べるので、それなら子供たちも一緒にということになったんですが、今度は親御さんが気を使って食材を持ってきてくれるようになったんです。なんだか申し訳がなかったので、その後は食事代として100円を払ってもらうことにしました。そんなことを続けているうちに”子ども食堂”というものを知ったんです。自分たちがやってきたことが事業として成り立つということを知って、それ以来自分たちも”コスモス子ども食堂”を定期的に開催しました」

コスモスの家で子ども食堂を開催。安価で食事を提供

地元住人、そして地域の子供たちの憩いの場だったコスモスの家。原田さんはこの場所を拠点にボランティアの受け入れや子どもたちの見守り、そして新たな住人と地域との橋渡し役など、あらゆる地域支援活動に勤しみました。しかし2017年の10月、コスモスの家は道路拡幅によって惜しまれつつ閉鎖されることになりました。

住居としても使っているたんぽぽの家には、地域住人やボランティアの寄せ書きが
2019年10月、石巻は水害に見舞われ、原田さんは復旧活動に尽力

「石巻から日本を変えられる」

「石巻で産声をあげたNPOや支援団体は数多く存在します。そんな数ある団体を、僕は石巻市の皆さんに財産として捉えてほしかった。そして大切なのは今じゃなくて、震災から10年後、復興のその先にも目を向けなければいけないと思ったんです」

2018年5月、原田さんは市会議員に立候補しました。しかし立候補表明の直前まで団体の活動を継続しなければならなかったため、準備に十分な時間をかけられず、当選はかないませんでした。

石巻に来てから9年が過ぎて、原田さんは地域にしっかり溶け込みました。以前と変わらず、コミュニティの困りごとに対応し、各地で発生した災害支援にも駆けつけています。石巻の復興に関わりたいという強い意志と、活動で得た自信、そして地域の人たちや仲間たちの想いが、ひとりで奮闘する原田さんをここまで支え続けました。

「僕はお金ではない大きなもの、記憶にしっかりと残せるものをこの街で得られると思っています。だって『石巻から日本を変えられる』なんて思っているくらいですからね。僕はこの街に恋をして、そして結婚したんです」

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夏目健司 (なつめ・けんじ)

愛知県名古屋市在住のカメラマン兼ライター。バイク、クルマ雑誌の取材を中心に活動中。趣味はバイクやアウトドア。毎年夏にはバイクのキャンプツーリングを楽しんでいる。ケッコン歴無しのアラフィフ男目線(?)で多様なテーマに挑戦中。1971年生まれ。

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