西日暮里「謎の踏切」が物語る常磐線のルーツ 「貨物線」が日本経済を支えた(知られざる鉄道史 5)
国内有数の進学校・開成高校の目の前にあるJRの西日暮里駅(東京都荒川区)。そのホームをくぐる形で、道灌山(どうかんやま)通りが東西に走っています。道灌山とは西日暮里公園周辺の小高い台地を指し、その名は江戸城を築城した武将・太田道灌に由来すると言われています。
道灌山通りは10本の線路が並ぶJRの高架線と、日暮里・舎人ライナー、京成線の下をくぐります。さらにその下に地下鉄千代田線が走るという、都市鉄道ならではの複雑な立体交差です。
ところが、この立体交差から東へ200メートルほど進むと、都心には不似合いな踏切に出くわします。「日暮里道踏切」です。この踏切、眺めていてもなかなか列車はやってきません。ようやく踏切が鳴動し、遮断機が降りたかと思うと、やってきたのは赤い機関車がけん引するコンテナ列車。そう、ここは貨物線の踏切なのです。
貨物の拠点、隅田川駅
目の前の踏切を通過した貨物列車は、約3キロ東にある隅田川駅を正午すぎに出発し、翌朝、北海道の札幌貨物ターミナル駅に到着する長距離列車です。途中で機関車を2回付け替えて、約18時間で1200キロを走破します。
「隅田川なんて駅は聞いたことがない」と思われる人もいるかもしれません。それもそのはず、南千住駅に隣接する隅田川駅は、1896年の常磐線開通と同時に開業した貨物専用駅で、旅客列車は一切発着しません。
もともと常磐線は、茨城県と福島県にまたがる常磐炭田で産出された石炭を首都圏に輸送するために建設された路線です。隅田川貨物駅は、運ばれてきた物資を隅田川の水運に積み替える貨物ターミナルでした。水運からトラック輸送に切り替わった現在でも、東京の北の貨物ターミナルとして重要な役割を担っています。
常磐線の「起点」は田端駅だった
石炭を運ぶために建設された常磐線ですが、東京都心と並ぶ「石炭の一大消費地」だったのが、横浜港です。船舶用の燃料として大量の石炭を必要としていたためです。
しかし、当時は鉄道網がいまほど発達しておらず、上野~新橋間の線路も繋がっていませんでした。そのため、常磐線の貨物列車が横浜方面に向かうには、新宿経由で山手線を回る必要がありました。
こうしたことから、開業当初の常磐線のターミナルは上野駅ではなく、三河島からまっすぐ西へ進んだ田端駅でした。冒頭で紹介した「日暮里道踏切」の線路は、田端駅へとつながるかつての常磐線の「本線」だったのです。
常磐線の急カーブのワケ
ところが、常磐線の開通から9年後の1905年、常磐線と日暮里駅をつなぐ連絡線が新設され、三河島で270度近い急カーブを描いて日暮里方面に向かうようになりました。それまで、常磐線で都心に向かう乗客は、田端駅で乗り換えて上野方面に向かう必要がありました。しかし連絡線の新設によって、旅客列車の「上野直通」が実現したのです。
こうして後から作られた急カーブが「本線」となり、元々の直線ルートは貨物専用の「支線」に変更されました。旅客線と比べて運転本数の少ない貨物線は高架化されることなく、現在まで踏切が西日暮里の片隅に残されることになりました。
出自を忘れられた踏切は、今日も人知れず、開通時に託された使命を果たしているのです。