初めてインタビューした売春女性のこと(沖縄・東京二拠点日記 6)

沖縄の夏には鮮やかな花がにあう
沖縄の夏には鮮やかな花がにあう

10年ほど前から沖縄と東京の二拠点生活を続けている。毎月一人で那覇に行って、一週間ぐらい過ごし、また一人で沖縄を離れる。沖縄の暮らしを楽しみながら、沖縄で取材して原稿を書く――。この連載コラムでは、そんな日々を日記風に書きつづっている。第6回は、9月出版のノンフィクション『沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きたものたち』(講談社)の取材に関する思い出を記した。

おしゃべり好きのセックスワーカー

【7月某日】 仕事場に戻って、当時の取材ノートを読み返した。初めてインタビューをしたのは30代半ばの沖縄生まれの女性だった。彼女は辻にあった「デートスナック」に勤めていて、ぼくは何度か通ううちによく話をするようになった。

ぼくは取材意図を、彼女や、彼女の所属する店の関係者に伝えて了解を得たうえで、2時間以上にわたってインタビューをさせてもらった。当時の取材ノートから彼女の言葉をひろってみる。録音はダメ。ぼくはひたすらペンを走らせた。

が、当時はまだ、これをどう活字にするか考えていなかった。記録できるタイミングに、記録する。いつかやろうと先のばしにしていると、連絡がつかなくなったり、相手の気持ちが変わったりすることはよくあることだから。

浅黒い肌で痩せ型の彼女はおしゃべり好きで、相手を包み込むような、おっとりした口調が特徴だった。トークの仕方もセックスワーカーとしてのスキルのうちなのだろうけれど、彼女のしゃべり方に接していると、指名が多いという人気ぶりがわかった。年齢は聞かなかったが、30代半ばだったと思う。

デートクラブは警察の摘発等で廃業していた。いまは性風俗の案内所と、店が解体されたままの状態になっていた。当時の看板もすべて取り外されていた

「お客さんですか? リピーターが多いですよ。そういうお客さんとはいっしょにいる時間を大切にしています。私といると楽しかった、沖縄にきてよかったとお客さんに言ってもらえると、よかったと思いますね。一対一で濃密な時間を過ごすんですから。

お客さんとはホテルの部屋で過ごしますが、エッチをするだけじゃなく、楽しい時間にしたい。お客さんが何を求めて、私がどう満足させるか、ですよね。それで信頼関係も生まれますから、じつは私自身も、話を聞いてほしいと思うときがあるから、そいときは話を聞いてもらいます。

サービスについて同業の女の子と情報交換もしています。向上心を持って、サービスを上げれば、その分は自分に返ってくると思っていますから。こういう仕事にとやかく言う人たちも多いですが、人と接するのが基本的に好きなので、仕事を続けるうちに、自分はこの仕事に向いていると思えるようになったんです。

もちろん、苦痛なときもありますよ。愚痴が多いお客さんとか、機嫌が悪い人、急かしているお客さんが嫌ですね。断る客ですか? もちろん、いますよ。しつこい人、乱暴なしゃべり方をする人、( 私たちのことを) バカにする人ですね」

辻の中にある公園。性風俗業が入るビル(奥)と隣合っている

「沖縄の人は店には入れません」

「私たちをお客さんにつないでくれる、(所属している)お店の人やブローカーの人たちに、お客さんが『よかった。また来たい』と言ってくれるようにしたい。リピーターになってもらえますから。沖縄では、紹介者やブローカーと私たちの連携は強いと思います。だけど、いまの若い女の子たちは、間に入ってくれる人と接点を持ってないですね。

なんていうのかな、若い子って人に興味がないというか。だから、そういう人たちから接客技術とかを教えてもらうことがない。でも、いざというときに頼りになります。アフターケアもしてくれるんです。それに沖縄は狭い社会なので、基本的にデートクラブは地元の人は入れません。いま、お客さんは100パーセント内地の人です」

「沖縄の高校を卒業してからすこしの間は実家にいたんだけど、親と喧嘩して内地に出てきました。神奈川県に従兄弟がいたからです。美容商品の訪問販売をやっている会社に就職して、そこでエステの技術を覚えました。神奈川で結婚、出産しました。

元ダンナは長距離トラックのドライバーやガスボンベの取り付けの仕事をしていました。当時は月収50万ぐらいありましたが、私が30歳ぐらいのときに下がりだし、さらにダンナが趣味でクルマにカネをつぎこみすぎて、生活できなくなったんです。お金がなくなって、子どもが病気になったとき、近くに小児病院があるのに、救急車を呼んで遠くまでいったこともあります。

もともとダンナは父親になりたくなかった人なんです。それでも、子どもが大人になるまでは沖縄でいっしょに暮らしたかったから、沖縄に夫婦いっしょに帰ってきたけれど、こっちには稼げる仕事がなく、けっきょく離婚しました。沖縄は飲み屋や夜の仕事も多いし、夜間保育がたくさんあって、自分で働けると思いました。

昼間はOLをやり、夜はデリヘルで1年半ほど働いてました。子どもが1歳でした。デリヘルは求人誌でさがしました。母子手当てをもらうために、実家から出て、アパートを借りる必要があったんです。アパートを借りるためのおカネをつくるためにデリヘルで働きだしました。風俗は悪いイメージがあったんですが、お金のためにやろうと思ったんです。

デリヘルはお客さんの自宅に行ったりもするから、ヘンな人じゃないかとか、隠しカメラがあるんじゃないかとか気になりました。出された飲み物は飲まないようにしていました。幸い、怖い目にはあったことがありません。抵抗感はありましたが、しばらくは我慢しました」

当時のぼくのノートには、彼女の言葉がびっしりと書きつけてある。録音はしないという約束だった。

日中の辻は閑散としていて、夜の妖しげな雰囲気はまったく感じられない

「デートクラブは月に100万いけるよーと誘われた」

「デリヘルは本番行為がなかったし、すこし我慢すればこれだけ稼げるんだと思った。昼間の仕事は午後1時~9時ぐらいまで働き、そのあと、子どもを無認可保育園に夜間預けて、朝までデリで働きました。デリの待ち時間に仮眠をとったりして、朝方に帰って寝る生活でした。

月に保育園料金だけで6~7万かかりました。沖縄は無認可保育園が多いんです。夜働く女性が多いから。デリでは月15~20万。昼間の仕事では10~12万ぐらいの稼ぎでした。

あるとき風俗系のメンズエステでマッサージを教えていたときに、その店の前にあった喫茶店で食事をしていたら、顔見知りのお姉さんが”デークラは月100 万いけるよー”と声をかけてきた。

そのお姉さんはデートクラブで働いていて100 万稼いでいるというんです。じつはその喫茶店がデークラの女の子の待機場所になっていたんです」

「お姉さんの話を聞いて、現金の魅力にひかれました。そうこうするうちにデリヘルのオーナーとすこし折り合いが悪くなって、オーナーの知り合いの風俗サービスの”メンズエステ”に移りました。デリではたまにしか働かなくなり、収入は減りました。

月に30万は必要だったから、そのうちにデートクラブに一本化するようになりました。収入が上がり生活もラクになると、さきのおばさんに誘われたからです。最初は少ししか売上がなかったけど、半年ぐらい経つと月に100万稼げるようになったんです。

売上は、デートクラブオーナーと6対4で分けてました。私が6割です。少ないときでも月50万は稼ぎましたが、だんだん不景気になってきて、いまはデートクラブを2軒かけもちしてます。

デートクラブは知っている店同士で女の子の貸し借りをするんです。足りなくなると、他の店から応援に行くみたいな。沖縄のデートクラブは20代~40代までいますが、私はそろそろ年齢的にもキツいので、お金がたまった時点でスパッとやめるつもりです。

他の女性も同じで、自分のお店をオープンするとか、子どもが大きくなったからとか、借金を返済したからとか。私はやめたら、またエステの仕事か、ふつうのOLに戻ろうと思っています。収入が下がるのはたいへんだけど・・・。

でも売春していて金銭感覚が狂うとたいへんなことになります。戻れなくなります。私も一時期、その日に現金が入ってくるので感覚がおかしくなり、パチンコにはまったり、ブランド品を買いまくったりしました」

かつて繁栄した沖縄県宜野湾市の特殊飲食街「真栄原新町」はゴーストタウンとなっている

真栄原新町や吉原は「落ちていくところ」

私は、(沖縄の二大売買春街と呼ばれた)真栄原新町(宜野湾市)や吉原(沖縄市)で働いたことはないですか、と質問した。

「ないです。ないです。どうやってできた街かは聞いたことがあって、すこしは知ってますが、詳しくは知りません。戦争のあと、沖縄の特飲街はアメリカの兵隊相手につくられていったということは聞いたことがありますよ。

私はあそこらへんでは働いたことがないので・・・。ちょんの間ですよね? すごく、からだ的にたいへんそうとイメージがあります。私にはちょっと無理ですね」

彼女の口ぶりからして、真栄原新町にはあまりいいイメージを持っていないことがわかった。真栄原新町や吉原は「落ちていくところ」というイメージだった。彼女の話を聞いて、真栄原新町や吉原の戦後史を一層調べてみたくなり、街に棲息している人たちに話を聞いてみたいと思った。

売春とともに生きた人々のリアルを描く 「沖縄アンダーグラウンド」の舞台裏

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