恋は破れてこそ恋、旅は予期せぬことがあってこそ旅

あてもなく歩く旅こそ面白い(イラスト・古本有美)

「恋って何だろう? 僕はね、恋は、破れてこそ恋なんじゃないかなと思うんだ」

いささか禅問答のようだが、学生のころ、文学好きの友人がそんなことを言っていたのを思い出す。たしかに何かを失ってこそ、その本質に迫ることができるかもしれない。過ぎてしまった時間を懐かしむのも同じような感情に根ざしているのだろう。

友人の言葉に従えば、旅も、当初の予定から外れ、予期せぬことがあってこそ旅なのかもしれない。

数年前に訪ねた京都府北部の小さな町。外観がみすぼらしく、期待していなかった駅前の温泉施設(入浴料500円)は湯が驚くほどこんこんと湧き出て、体の芯まで温まった。風呂上がりの生ビール。こちらはキンキンに冷えていて、冷ややっこも濃厚な味わいだった。さらにうれしかったのはシメに頼んだ鍋焼きうどん。大阪の名店に劣らず旨みがたっぷりだった。

「この先、もっと良いことがあるかもしれないなあ」

勝手な期待を抱いて、夕暮れ、スナック街に繰り出したが、「テナント募集中」の張り紙があちこちに貼られ、どこも閉店だった。「カー、カー」というカラスの鳴き声が聞こえてくる。

自分が情けなくなり、1軒だけのれんが出ていた中華屋に飛びこんだ。すると予期せぬことが。注文したギョーザが抜群にうまかったのである。店主に伺うと創業38年の老舗。ラーメンもチャーハンも絶妙な味を出していた。

旅は見知らぬ風景や出来事との出会い。期待通りに進まないことのほうが多いのではないだろうか。「予定調和」ほど退屈なものはない。文豪ゲーテも「世界のすべてのことは我慢できるが、我慢できないのは結構な日の連続だけ」と言っていた。「結構」を「停滞」と言い換えてもいいだろう。つまり変化のないことである。

湯気の向こうに浪花人情のぬくもりがある

大阪・新世界を思い出す。通天閣の立ち食いうどん屋「三吉」と出会ったのも偶然だった。プレハブ風の造りは9坪ほど。たしかに外観はオシャレとは言いがたい。

通天閣の立ち食いうどん屋「三吉」

不思議な看板に惹かれ入ったのだが、うどんが安くて実にうまいのである。かけ170円。甘い汁が口いっぱいに広がった。油揚げ、天ぷら、生卵の3点が入った「デラックス」は350円である。

先代の店長が空き地を利用し、1969(昭和44)年に開いたという。店名は大阪ゆかりの将棋棋士・阪田三吉からとった。

この店が一押しなのは雰囲気が抜群のことだ。立って食べる男の背中には哀愁がにじみ出ている。ズルズル、ズルズル。うどんをすする音が響く。汁を飲み干しフーッ。「おおきに」。見送る店主の笑顔も優しい。大げさな言い方かもしれないが、湯気の向こうに浪花人情のぬくもりがあり、丼の底には明日がある。

さて、近くにあるジャンジャン横丁には「モーニングサービス」を出している立ち飲み屋がある。生ビールまたはチューハイ、ゆで卵と塩昆布つきで350円(午前9時~11時半)。モーニングサービスは喫茶店だけではありまへんで、という確かな実証である。

何事も固定観念にとらわれていてはおもしろくない。こせこせしたことは言わずに世の中、楽しむべし。

「こころが開いているときだけ この世は美しい」(「格言詩」)

ゲーテの言葉を再び引いておこう。

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小泉信一 (こいずみ・しんいち)

1961年生まれ。朝日新聞編集委員(大衆文化担当)。演歌・昭和歌謡、旅芝居、酒場、社会風俗、怪異伝承、哲学、文学、鉄道旅行、寅さんなど扱うテーマは森羅万象にわたる。著書に『東京下町』『東京スケッチブック』『寅さんの伝言』など。

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