S先生と自由への逃走(青春発墓場行き 2)

(イラスト・戸梶 文)

僕の最も苦手な先生にS先生がいた。高1のときの古典の先生だった。年は若く、髪の毛を金髪に染めていて、当時珍しかった携帯電話を持っていた。また、手相占いができ、国語科の控室で、女子の手相をよく見ていた。教え子と結婚したという噂で、何から何までいけ好かない野郎(あえて書きます。先生すみません)だった。

トモフスキーが歌ったように、「誰でもみな両想い 好きなヒトにしか好かれない 嫌いなヤツにはちゃんと嫌われてる」(『両想い』1993年)ってことで、僕は明らかにS先生に嫌われていた。

S先生は、キレ芸の先生で、質問に答えられないと、容赦なくキレ、「出て行け!」と、怒鳴る。そして、最もよくキレられていたのが、僕だった。「図書館行って来い!」と言われて、何度行ったことか。素直に出ていくのが、また火に油を注いでいた。

とにかく、勉強することがカッコ悪いと勘違いしていた僕は、授業は寝るものだと思っていて、頑なに寝ていた。そうするとピンポイントで、質問を当ててくる。当然のことながら、答えられない。みるみるS先生の顔が鬼の形相に変わっていく。

それだけではなかった。クラスに美術の得意な女の子がいて、なぜか僕はその子の斜めの席になることが多かった。その子は、休み時間になるたびに、美術室に絵を描きにいき、決まって、授業に遅れてくる。S先生は、授業に遅れて来る人から、質問を当て、その人から斜めに当てていくので、僕が巻き添えを食らうのだ。

その女の子は美術に没頭するあまり、人の迷惑を考えてないようだった。高畑勲か。それとも、INUの町田町蔵のように、「俺の存在をあたまから否定」(『メシ喰うな!』1981年)していたのか。そんなこんなで、1年の僕の古典の成績は24点(僕の高校は100点換算で60点以上が及第点)だった。

そして、高2のときに、S先生がこともあろうに担任になってしまったのである。僕は絶望した。しかし、僕もとんでもなくひねくれていて血気盛んだった。その日から、僕とS先生との攻防がはじまった。

まず、僕は、古典の授業に一切でなくなった。古典の授業のときは、落研の部室で過ごすか、外に出て喫茶店で過ごした。落研の部室には、なぜか尾崎豊のCDがあって、僕たちに「自由になりたくないかい」(『Scrambling Rock’n’Roll』1985年)と煽り続けた。

部室の窓を開けるとプールが見える。同じくサボっていて、引きこもりになってしまったOが、何気なく窓をあけて先生に見つかり、怒鳴られて、みんなで焦って学校の外までダッシュしたのは、自由への逃走だったのであろうか。

S先生から受けた理不尽な「報復」

報復は僕だけにまわってきた。Sの野郎、高校生活の最大の楽しみでもある席替えの自由を僕から奪ったのである。僕だけ、先頭の列の真ん中、つまり、教壇の眼の前の席に固定したのである。そんなことが許されていいのであろうか。今考えると理不尽すぎる。

しかし、その当時は、悔しいが反論する言葉を持たなかった。僕は、一番前の真ん中で、鬱々と授業を聞いた。その後、進路指導の際、芸術大学志望と何気なく書いたら「本気でそう思ってんのか!」とブチ切れられた。それ以降、僕は進路の欄に、死んだ目で「皇室関係」と書き続けた。

ほどなくして次の報復がやってきた。親が呼ばれたのである。このままでは、3年に進学できません。そうはっきりと親の前で言われた。僕は、仕方なく、放課後の補講に参加させられることになった。

そのおかげでなんとか3年に進学することはできたが、もうこのときには、勉強など、さっぱり意味がわかりません状態だった。僕のわずかなプライドは、アンドレ・ブルトン、カミュとか大江健三郎とか村上春樹とか、ちょっと難しい小説を読んでいること、それだけであった。

3年にあがるとS先生とは関わりがまったくなくなった。いなくなってはじめてその存在のありがたさに気づく……なんてことはまったくなく、僕は、喜びに満ちあふれていた。そして、僕は順調に受験に失敗、S先生は転勤で、同じ学区の最底辺校に行き、スクールウォーズ状態だという噂を聞いたっきりだ。

やがて僕は一浪して大学へ進学するのだが、法学部でありながら、社会学系の授業ばかり受講していた僕は、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』という本と出会う。僕が最初に浮かんだ言葉は「どっちやねん」。

S先生から抑圧を受けて自由を求め、自由が無料みたいな大学生活で、『自由からの逃走』を読んだ。結果、僕はどうなったのか。それはこの連載の最終回にでも書こうと思う。

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