僕の最初の青春の終わり。そして僕は旅に出た(青春発墓場行き 16)

(イラスト・戸梶 文)
(イラスト・戸梶 文)

はじまりがくれば必ず終りが来る。僕は徐々に編集部での記者の仕事に、行き詰まりを感じてきてしまっていた。僕の所属する雑誌は、メジャー週刊誌。編集部からの方針で必ず大物芸能人や事件と絡めてネタを出すように言われていたが、僕の興味は必ずしもそのようなものではなかった。編集会議で僕は、編集長から厳しく糾弾された。

「お前のその企画で部数が2万部でも上がるのなら、いくらでもやっていいぞ」

自分が力を入れた記事よりも、あまり自分では興味のない、上から降ってきた芸能人のトリビア記事が読者投票で上位を飾った。

僕は、自分がやりたい企画をやるためにこの業界に入ったのではなかったのか。最初は、なんでも目新しく新鮮だから、楽しくやれていた。だけど、徐々に慣れてくると、今まで、見ようとしてこなかったことが見えてくる。僕は目の前にある現実を直視し始めていた。

確かにメジャー誌だから、誰もが興味のあることを題材に記事を作るのは当然のことだ。それを自分の興味とつなげてどう料理するか、その切り口を見つけられないのは、僕の責任だ。その葛藤に苦しみ続けて僕はだんだん無口になっていった。

ここは僕のいるところでは、ないんじゃないだろうか。

そんななか、僕のはけ口になったのが、他社のサブカルチャー雑誌だった。僕は、ペンネームで他の雑誌に寄稿するようになっていった。そこでは、自分の興味がある、まだ売れる直前の人やモノを取り上げて、インタビューしたりコラムにしたり自由気ままに書いていた。こっちのほうが僕には向いているのではないだろうか。

売れることを目指すことは全然、悪ではない。単なる雑誌の種類の違いだけである。やり方が違うだけだ。それぞれのターゲットがあって、それぞれのビジネスの仕方がある。ただ、売上至上になっては面白くない、とも僕は思う。

そこに遊びがないと雑誌はつまらない。雑誌はマーケティングでは生まれない。いや、マーケティングで生まれた雑誌はつまらない。人がワイワイやりながら考え、生まれた雑誌じゃないと、個人的な雑誌じゃないと、本当の面白さを作れないんじゃないかと思う。幾多の編集会議を重ねてきた結論だ。そうしないと、すべて流行の後追いになってしまう。流行は作れない。

しばらくして、僕は事件班からグラビア班に異動し、また事件班に戻ったが、その気持ちは変わらなかった。潮時だった。僕は、編集部を辞める決意をした。4年半の在籍期間だった。僕の第一回目の青春は静かに終わりを告げた。

完全に行き詰まった人生「僕」がとった選択肢は……

その後、僕は、とあるカルチャー誌の編集部に転職した。しかし、その会社と折が合わず、また雑誌とも相性がよくなく、3カ月で辞めてしまった。今考えるとそれで良かったと思っている。僕はとことん組織とやっていくことができないのだなと痛感した出来事だった。

その次にすることは何も決まっていなかった。人生、振り出しに戻った。僕は、ひとり家の中にいた。誰とも連絡を取らず、今後の人生を考えていた。こういうとき、SNSはとてもうざいものだ。アカウントをぶち切りたくなった。誰かが僕のことを笑っているのではないか。そんな妄想を頭の中で消し去る。よっぽど削除しようかと思ったが、何かあったときの命綱でもあるので放置した。

僕は本当に何もせず3カ月ほど引きこもった。天井を見つめながら、鳴らない電話を見つめていた。何もせずというのは大げさか。本ばかり読んでいた。主に探検モノで知られる高野秀行さんの本だ。ここではないどこかに行きたかったのだろう。現実逃避も甚だしい。そこでふと思い立った。もう何もかも捨てて、僕も放浪の旅に出よう! というものだった。完全に人生に行き詰まった。

今考えると恐ろしい発想だ。まず僕は借りていた部屋を解約した。本や家財道具をすべて売っぱらった。それまで取材などでカードを使っていたので、おそろしいくらいのマイルがたまっていた。それで世界のどこにでも無料で行けることがわかった。しかも1年間オープンチケット(搭乗する日を決めず、区間だけを指定する航空券)が取れることが判明した。

さて、どこに行こう。僕の胸は膨らんだ。いろいろ考えた末、まだ行ったことのなかった中東に決めた。僕は、トルコ行きのチケットと、トルコからエジプト行きの片道チケットだけを手配した。行くことは、誰にも告げなかった。そして、パソコンもガイドブックも持っていくつもりはなかった。チケットの有効期限は、1年間ある。いつ帰るかわからない放浪の旅だ。もうライターに戻ることもないかもしれない。

覚悟を決めた。でも清々しい気分でもあった。そして楽しみでもあった。僕は晴れて自由な身分だ。可能性は無限に広がっている。果たしてこれからどんな出会いが待っているのだろう。ウキウキしながら僕は、ひとりで成田空港に向かっていた。

果たして僕の未来に待っていたのは、希望か絶望か、珍道中か、自分探しか。第二の青春となるのかどうかは運命の決めることである。そのとき、齢31、遅咲きのバックパッカーの始まりだった。

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