北条早雲の名城は、なぜ女子校になったのか? 神奈川の「玉縄城」を訪ねて(ふらり城あるき 8)
難攻不落の城が女子校に変貌
急な坂道を上っていくと、「学校構内につき立入禁止」と書かれた立て看板が見えてきました。ここは神奈川県鎌倉市の清泉女学院。カトリック系の中高一貫校です。許可を取っているとはいえ、男子禁制の土地に踏み込むのはドキドキしました。
なぜここに来たかというと、もちろん城跡があるからです。その名は「玉縄(たまなわ)城」。関東が誇る戦国大名、北条早雲が築いたと言われる名城です。難攻不落の戦国城郭は、女子生徒たちの聖域になっていました。どちらも部外者を容易に寄せ付けないという点では、よく似ています。
DANROの亀松太郎編集長から「鎌倉市内にある女子校が、もともとは玉縄城という城跡だったらしいんだけど、行ってみない?」と声がかかり、12月21日午後に同校を訪問しました。
校内に残る城跡の保存具合は?
清泉女学院までは、JR大船駅から徒歩20〜30分程度。生徒の通学用に駅からバスが通っていますが、町の雰囲気を掴むために歩いて向かいました。巨大な大船観音像を横目に、丘陵地帯を切り開いた住宅街を歩いていきます。何度かトンネルをくぐりました。12月とはいえ晴天に恵まれ、比較的すごしやすかったです。
清泉女学院は、玉縄城の本丸跡にあります。遺構の大部分は、校舎やグラウンドになりましたが、「諏訪壇(すわだん)」というひときわ高い曲輪(くるわ)が残っています。
この日の午前中は終業式。清楚な制服に身を包んだ女子生徒が、ちらほらと坂道を降りて下校していました。今回は学院の厚意で、社会科の野澤俊介先生と北宮枝里子先生に、城跡をガイドしてもらいます。2人は清泉女学院の中学1・2年生にもフィールドワークで校内の城跡を案内しており、好評だそうです。もし城マニアの生徒がいたら、たまらない授業かもしれませんね。
諏訪壇に行く道は、守衛さんがいる正門の横にありました。普段は鍵で閉ざされていますが、清泉女学院では事前に申請があれば一般人の見学を許可しているそうです。
諏訪壇は、校舎のグラウンドから見て高さ20メートルほどの高台にあります。玉縄城跡でも最高峰にあたる場所です。長い石段を上がっていくと、傍らに校舎を見守るイエス・キリスト像がありました。かつて、この諏訪壇には玉縄城を守護するために諏訪神社がありましたが、城の主が変わったことで、宗教も切り替わったのでしょう。
息を切らして上がりきると、頂上は落ち葉が積もる幅20メートルほどの広場になっていました。鬱蒼(うっそう)と茂る木が邪魔して、今は見晴らしが利きません。しかし、野澤先生らによると築城当時の諏訪壇は、敵の攻撃を見張る場所としては最適だったそうです。その証拠に、諏訪壇よりも低い位置にある清泉女学院の校舎の最上階からでも、海岸まで見通せます。
ここには矢倉があった可能性もあるそうです。確かにここから矢を放てば、城下に押し寄せた敵は滅多打ちにできるでしょう。諏訪壇の中腹には、空堀(からぼり)の跡もありました。
ネット上では玉縄城の遺構は「ほとんど残っていない」とされることが多いですが、清泉女学院の中のこれらの部分に限っては、意外と良好に遺構が残っていることが分かりました。
気軽に見られる遺構「七曲坂」とは?
野澤先生らに案内してもらって、清泉女学院を裏門から出ると、10メートルほど低い場所に閑静な住宅地が広がっていました。
ここもかつては玉縄城内でしたが、今では何も見当たりません。辛うじて残った小高い市民緑地には、陣太鼓を打ち鳴らすための太鼓櫓(たいこやぐら)があったと伝えられています。
立看板には、ありし日の玉縄城の想像図が描かれていました。戦国時代の玉縄城は、相当に大規模な城郭だったことを偲ばせました。
ここから城外に向かって「七曲(ななまがり)坂」と呼ばれる曲がりくねった坂道を降りていきます。地元の子供たちが、はしゃぎながら走っていった後に、北宮先生が次のように言いました。
「生徒たちがフィールドワークをするときは、この坂の途中で『皆さん、ここから学校がどこの位置にあるか分かりますか?』と聞くんです。そうすると、全然、学校が見えないんで戸惑うんですよ。玉縄城を守る北条側からは敵はよく見えるのに、敵は玉縄城の本丸がどこにあるのか分からない。上からつぶて石などが飛んできて、一方的に攻撃を受けることになるんです」
なるほど……よく出来た城だ。感心していると目の前の地面を茶色い物体が横切っていきました。タイワンリスでした。城跡だけでなく自然もよく残っていました。
なぜ城跡に女学校が…図書館で謎を探る
2人にお礼を言って別れた後、近隣にある玉縄図書館で郷土図書をあさりました。異本小田原記で「当国無双の名城なり」とうたわれたほどの名城が、なぜ学校と住宅地になったのかが気になったからです。
築城時期は諸説ありますが、「日本城郭大系 第6巻」(新人物往来社)によると、戦国時代まっさかりの1512年です。小田原城を奪って、伊豆から相模(現在の神奈川県)に進出してきた北条早雲は、三浦半島を支配する三浦氏を攻めあぐねていました。
そこで、三浦半島の付け根にあり、交通の要衝でもある玉縄の丘陵地帯に大規模な城を作ったのです。城の全域は、東西南北それぞれ1200メートルに及び、三浦氏と対峙する南側が特に厳重に防備されていました。
築城4年後の1516年、早雲は三浦氏を滅ぼすことに成功しますが、玉縄城はその後も小田原城の支城として重要視されました。北条氏の親族が入城して、守りを固めました。攻められた記録は実に5回。上杉謙信、武田信玄らの攻撃を食い止めました。
しかし、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めでは、徳川家康の軍勢に包囲されたことで、城主の北条氏勝が開城。その後は徳川家の家臣が玉縄城を治めたものの、江戸時代初期の1619年に廃城になりました。
その後、玉縄城跡は長く眠りにつきました。1950年代まで無数の土塁や空堀など当時の遺構が残っていました。本丸は畑になりましたが、土塁に囲まれた五角形の形をしていたそうです。
しかし、戦後まもなく大きな転機が訪れます。朝鮮戦争の特需で日本が経済復興を始めた1954年のことでした。
玉縄城跡を中心した30万坪(約1平方キロ)もの広大な農地・山林が地権者から東急不動産に売却されたのです。五島慶太氏が率いる東急不動産は、玉縄城址を整地して「新鎌倉衛星都市」にしました。大船駅から東京・横浜にアクセスしやすいため、ベッドタウンに打って付けだったからです。
こうして1960年ごろから、玉縄地区の各地で工事が進められました。玉縄台住宅地、早雲台住宅地、城廻住宅地が誕生します。そして本丸部分は、清泉女学院に売却されました。
東急グループでは郊外の住宅開発の際に、学校の誘致を進めていました。大岡山には東京工業大学、武蔵小山には都立小山台高校、日吉には慶應大学の日吉キャンパス。これらは鉄道収入だけでなく、土地のブランドイメージの向上に繋がっていきました。ミッション系の名門である清泉女学院の誘致によって、東急不動産は高級住宅地のイメージを打ち出したかったのかもしれません。
鎌倉市教委は玉縄城跡を文化財として保護するために、本丸部分の土地買収をめざしましたが、財政面で断念しました。史跡保護よりも宅地開発による税収の増加の方が優先されたのかもしれません。
清泉女学院の建設が決まり、土塁などは破壊されるものの、諏訪壇など一部は、そのまま保存されることが決まりました。清泉女子大学教授で鎌倉市史編纂委員長でもあった亀井高孝氏は学院が建設された1963年当時、「この名跡が宅地として整地平坦化されてその上細分されることは、土城の跡の稀な現在、古文化財保存上遺憾の極みである」と無念な思いを綴っていました。その上で、以下のように続けました。
「城跡保存を希望する人々も会社側も、単なる住宅地として原形を止めぬまでに整地細分されるよりは、相当の犠牲は忍んでも城跡本来の姿を保存するためには、その大半を一括して使用する学校敷地とすることが次善だとの方向に傾いた」(清泉女学院中学高等学校「玉縄城跡」より)
せめて本丸だけでも公園にできなかったのか…と思います。でも、清泉女学院が誘致されなければ、全域が住宅地になる可能性がありました。その意味では苦渋の選択だったようです。
玉縄城跡めぐりは、戦国時代と戦後復興という二つの歴史の谷間を覗く旅でもありました。