ひとりだけど、ひとりじゃない感覚。ラジオの時間がくれたもの
スマホアプリのおかげでラジオを聞く機会が増えた
ひとりで楽しむエンターテインメントは世の中に様々ありますが、私にとってその代表格がラジオです。みんなで楽しむこともあるにはありますが、ひとり密かに楽しむのがラジオの醍醐味だと思っています。近年、radiko(ラジコ)というスマートフォンアプリのおかげで、普段からラジオを聞く機会がぐんと増えてきました。
radikoをご存じない方のために簡単に説明すると、これは無料でラジオを聞くことができるアプリです。今やっている放送をリアルタイムで聞けるのはもちろん、「タイムフリー」という機能により、過去1週間分の放送を遡って聞くことができます。この機能のおかげで、うっかり聞き逃した放送を聞くことができますし、深夜でとても起きていられない時間の番組も聞くことができるようになりました。
さらに月額料金を払ってプレミアム会員になると、「エリアフリー」といって日本全国の番組を聞くことができるようになります。私は関東圏に住んでいますが、北海道にあるSTVラジオの番組が聞きたいので、プレミアム会員になっています。
思春期に少年から大人へ…。深夜放送との出会い
ラジオとの出会いは、小学校高学年から中学生にかけて、ちょうど思春期と呼ばれる時期と重なっています。当時、そのくらいの年頃になるとラジカセ(CDラジカセ)やコンポを手に入れ始める人が多かったのですが、私はたしか小学6年生あたりでラジカセを手に入れ、それからラジオを徐々に聞くようになりました。地方に住んでいたため、地元のラジオ局とNHK以外の放送局は雑音が入ってあまりきれいに聞こえなくて、ラジカセのアンテナを伸ばしたり、ラジカセの向きを変えたり、窓際に置いてみたりしてなんとか音を拾っていました。
中学生になった頃に、深夜ラジオの世界へとはまっていくのですが、そのきっかけはニッポン放送のオールナイトニッポン。パーソナリティは筋肉少女帯のボーカリスト、大槻ケンヂでした。今でもその瞬間を克明に覚えているのですが、アニメ『サザエさん』のオープニング映像に関して、「サザエさんが悟りを開いたのではないか?」というネタをまことしやかに語っているものでした。「なんなんだ、この世界は」という驚きからすっかりはまり込んでしまい、様々なパーソナリティによるオールナイトニッポンを聞き続けていきました。
思えば、福山雅治を初めて知ったのもオールナイトニッポンでした。それまではどうせキザな歌手なのだろうという認識しかありませんでしたが、ふと耳にした放送で、なぜか俳優の宝田明を真面目な体でいじっているコーナーをやっていて、そのバカバカしさから毎週聞くようになり、いつしかCDアルバムを買うまでになってしまいました。ほかにもJUDY AND MARYのYUKIや電気グルーヴなど、ラジオがきっかけでその音楽を聴き始めたミュージシャンが多数おりました。
高校の頃からTBSラジオのUP’S(現在のJUNK)を聞き始めるようになり、伊集院光や爆笑問題なども聞くようになりました。あれから20年以上経ちますが、未だに伊集院と爆笑は毎週聞いているのだから、ある意味恐ろしいなと思います。そしてコサキン。小堺一機と関根勤による長寿番組でしたが、投稿されるネタのくだらなさは群を抜いていたと思います。あまりにくだらなすぎて、何がおもしろいのかさえわからなくなるほどおもしろい番組でした。
ラジオはひとりの時間を育んでくれた
家族が寝静まった深夜、布団の中でひっそりとイヤホンから聞こえるラジオの声を聞きながら眠れない夜を過ごしたり、テスト勉強や受験勉強をしたりしながらいつもラジオを聞いていました。
私にとってラジオは、ひとりきりの時間を潤してくれる存在であり、また同時に、自分がひとりぼっちじゃないことを感じさせてくれる存在でした。パーソナリティとの親密な距離感、ハガキ職人たちの熱を帯びた投稿にどれだけ救われたかわかりません。私が好きなのは、世の中にとって何の役にも立たないような、それこそバカバカしい投稿ばかりの番組が多いのですが、それらを聞きながら、“生きる希望”と言ったら大げさかもしれませんが、自分のようなちっぽけな存在でも「そこにいていいんだよ」と言ってもらえているような、ある種の絶対的な肯定感を勝手に感じ取っていたものです。
いつしか社会人になり、曲がりなりにも朝から真面目に会社に通うようになったため、深夜ラジオがなかなか聞けなくなりました。深夜1時から聞きはするのですが、どうしても途中で寝てしまうため、だんだんラジオとも疎遠になっていました。
しかし、radikoのタイムフリーのおかげで深夜放送を好きな時間に聞けるようになったため、俄然ラジオ熱が復活し、今では毎週必ず聞く番組もすっかり増えてしまいました。毎日の通勤時間や夜寝る前にせっせと聞いてはいるものの、それだけでは消化しきれないほどです。
イタリアの巨匠、フェデリコ・フェリーニ監督の代表作に『道』という映画があります。この作品の中で、ある登場人物が道ばたの小石を手に「この石だって、役に立っている」と言うシーンがあり、それがなぜか心に残っています。
さきほど思わず「世の中にとって何の役にも立たないような」という表現をしてしまいましたが、私は世の中で役に立たないものなど基本的にはない、という考えを持ちたい方なので、こうしたバカバカしい番組がなくならないでほしいと切に願っています。