売買春取材で命綱だった「沖縄人脈」(沖縄・東京二拠点日記 23)
『沖縄アンダーグラウンド』で扱った「沖縄の売買春」というテーマは、紹介者・仲介者といかに太いパイプがつくれるかで「決まって」くると最初から思っていた。
他者に話しにくいナーバスな問題について、その当事者にインタビューに応じてもらうためには「紹介者」や「仲介者」が重要だ。先月の回に「タクシードライバー大城」のことは書いたが、他にも取材の「起点」になるような方は何人もいた。
元『噂の真相』編集長の岡留安則さんからも「岡留人脈」をずいぶん紹介してもらった。のちに衆議院議員になる屋良朝博さんもまだ沖縄タイムスにいたころ、この店で知り合った。
岡留さんは、彼らにぼくがいま取材しているテーマを伝えてくれて、少しでも詳しそうな記者を紹介してくれた。そこから伸びていった取材人脈もあって、真栄原新町やコザ吉原等の売買春店の経営者へと広がっていったのだ。
街を「浄化」されたことへの怒り
その経営者──本書の中では「社長」という名前で出てくる──にさっそく、電話で取材の意図を話したところ、真栄原の喫茶店で、すぐに会おうということになった。
こういうテーマはつながった瞬間が勝負時、取材時だ。しばらく間を置いて、「あらため電話します」では、もう、つかまらないことが多い。気が変わってしまったか、電話番号を変えてしまうとか、そういうことは当たり前にある。
ぼくはすぐに会って取材の意図を説明した。まだ講談社のノンフィクション雑誌『G2』に記事を書く前のことである。
すると、その「社長」は「いいですよ、ぼくが知っていることは話しましょう」と言ってくれた。身長は低いが、首が太く、がっちりとした体軀。サングラスをはずさない強面の初老の男性だった。この街を「浄化」した人々に憤っていた。
人生を否定されたような感覚だったのだろう。そういった怒りが、街について知っていること、経験したことを全部話すという動機になったのだ。そして、彼の人脈もいろいろと紹介してくれるようになった。
彼とは10回以上、会っただろうか。彼が「幹」になった。他の経営者や売春女性を次々に紹介してくれた。
彼に謝礼は1円も支払っていない。彼の友人がやっている、スナックだか居酒屋だかわからない、ぜったいに一見客は来ない雰囲気の飲み屋でよく待ち合わせをしたから、そこでぼくが支払ったぐらいだ。高くても7000~8000円。彼もぼくが自腹で取材していることがわかっていたようだった。
付き合ううちに生い立ちもわかってきた。生まれたのは終戦直後。若いころ任侠に憧れて、沖縄から一旗あげに九州にわたり、いくつかのヤクザ組織を渡り歩いたが、なじむことができず沖縄に戻り、今の仕事を始めたという。
それから、どこの古い繁華街にも「年金飲み屋」といわれる安い居酒屋がいくつもある。ぼくはある街の一軒の飲み屋にしょっちゅう通った。もともとはそこを行きつけにしている知り合いの60代の男性に連れていってもらい、1人でも通いだした。
ビール(発泡酒)が200円ぐらいで飲め、それも早い時間から開いていた。開店前から60代後半から70代の男性が開店を待っていて、閉店の22時すぎまで居るという、おそろしく回転率が悪い店だった。
そういう店では互いの素性はあまり明かさないのだが、ある1人の常連客が、他の常連客の素性をとてもよく把握していることに気付いた。誰々は元どこどこの公務員だとか、どこどこの会社にいたとか、新聞者のOBだとか、とにかく詳しい。
その人とたまたま仲よくなって、自分が取材しているテーマを話したり、記事のコピーを渡したりしていると、このテーマなら誰々さんや誰々さんが詳しいかもしれないとか、ルートがあるかもしれないと親切に教えてくれるようになった。
その人はほんとうに親身になって相手にぼくを紹介してくれて、そこから話が次々に転がっていった。もちろん最終的には断られたことも多かったが。そこで知り合った人にぼくが知りたいことを伝えると、それぞれの人脈を駆使して、いろいろな人につないでもらったのである。感謝してもしきれない。
具体的には書けないが、その店で元警察関係者とも知り合って取材をしたし、母親が売春店を経営していた人とも知り合って取材をさせてもらった。
不思議な「出会い」もあって、ただの偶然にすぎないのだけれど、たまたま昼間にスーパーで生活用品を買って、仕事場に戻ろうとタクシーに乗ったら、ドライバーがぼくの顔をしばらく見て、「辻(ソープランドやラブホテル等が建ち並ぶ那覇最大の性風俗街)で起きた火災事故を知っていますか」と聞いてきた。
いきなりだ。ぼくはそんな話も振っていないし、ただ行き先を告げただけだった。その事件は辻のヘルスで数年前に火災があり、従業員の若い女性らが死亡したというものだ。古いビルで営業していたため、防火対策等が問題視された。
なんと、ドライバーはその女性と知り合いだったというのだ。聞けば、その女性を含めて何人かの女性を束ねて、性風俗の派遣の仕事をしていたという。ぼくはクルマを少しの間、路肩に停めてもらい話を聞き取った。
しかし、なんでそんなことを、いきなりぼくに話したんですか? と聞くと、いや、ただなんとなく、そういう話を聞きたい人なんじゃないかと思ったから、としか答えなかった。
ぼくは両手に日用品を詰め込んだビニール袋をぶらさげている短パンのオッサンだ。焼け死んだ女性の魂がドライバーに憑依でもしたのか。沖縄にはごくまれにこうした不思議な現象が起きる。
ヤクザ、売春宿の経営者、女性
沖縄のヤクザにもずいぶん取材をした。取材ルートは秘匿しなければならないから詳しくは言えない。引退したヤクザや、現役の幹部ヤクザの取材も何回かおこなったが、それには、その世界に通じている諸先輩ジャーナリストの協力が不可欠だった。
紹介してもらい、長い手紙を書き、電話をしてから、会いに行った。
一度会って、ぼくの取材意図をわかってもらうと、いろいろなことが聞けた。そして、何か取材で聞きたいことができると、相談に乗ってくれるようになった。
『沖縄アンダーグラウンド』では、1960年代につくられた「モトシンカカランヌー」(沖縄の言葉で元手のかからない仕事。つまり売春のこと)という沖縄の売春をテーマにしたドキュメンタリーを取り上げているが、その映画にはかつての組織的ヤクザになる前の沖縄アシバー(遊び人。沖縄ではヤクザのこともそう呼ぶ)が何人も登場している。まだ「那覇派」とか「コザ派」と言われていた愚連隊の時代である。
そういう人々の消息を知りたいときは、やはり現役の沖縄ヤクザに情報をもらったり、調べてもらうしかない。ずいぶん調べてもらったが、メシを喰うのもいつも安居酒屋だった。もちろん謝礼等はいっさい要求されていない。
たまに経営者の方から買春をすすめられたことはむろん、あった。「ついでに遊んでいく?」と冗談半分で聞かれる。しかし、ぼくはやんわりと断ってきた。
取材者が買春をしながら町を紹介する風俗雑誌の記事は散見してきたが、この町で生きてきた人にじっくりと会って話を聞くためには、そうした「客」ではないほうがいいと、関係者から暗に言われていたし、自分でもすぐに気づいたからだ。
売買春自体を否定はしないが、売春女性や、経営者、ブローカー、ヤクザとの間を取り持ってくれた人々の中には、こちらがちょっとでも「客」になってしまうと、適当に都合のいいことを言ったり、ぼくにウケそうなことを言ったりすることがあると聞いたからだ。
ただし、紹介してもらって、インタビューに応じてくれた女性には御礼を渡した。売買春の値段と同じ金額を。それは仕事中に時間をもらうわけだから、その対価だ。
いらないと言われたときも、もちろんあった。が、彼女たちは時間と身体を売って生活をしているのだから、そうすることが筋であり、礼儀だとぼくは考えた。
最初は、講談社のノンフィクション雑誌『G2』に400字30枚ほどの原稿を書かせてもらった。その取材をしている途中で、これはかなりの「鉱脈」に当たったのかもしれないという手応えがあった。
それまでは取材モードでは付き合っていなかった、売買春街の人々のことを真正面から書くようにぼくの尻を叩いたのは、講談社の石井克尚だった。彼が僕を「その気」にさせてくれたのである。
取材・執筆をしているうちに、書き足りない、取材が足りない、堀り足らないという欲求不満のような感覚がおそってきた。取材をすればするほど、ぼくにその感覚が付きまとった。
同雑誌は季刊だったが、のちに休刊してしまう。その一回分(10ページほど)の記事をコピーしたものを常に鞄の中に十数セット入れておいた。
そして、手当たり次第に「浄化」運動後のゴーストタウンと化した、真栄原新町や吉原などの売買春街で今でも営業しているスナック等に飛び込んで、タイミングを見計らって名刺といっしょにその記事のコピーを渡した。
そういうときは名刺だけを手渡しても、東京から来ているライターぐらいしか相手の印象には残らない。ぼくが大手マスコミに属していれば別だったかもしれないが、フリーランスのノンフィクションライターですと名乗っても、なにそれ? というかんじだった。
それよりも、名刺といっしょに、雑誌記事のコピーを手渡し、その場でざっと小見出しだけでも読んでもらったほうがはるかにぼくの意図が伝わった。
初めから興味がない方や、ぼくの来訪をうっとうしがっている方は、記事を手渡したとたん、そのあたりに放り投げたから、それだけで脈がないことがわかった。目を落としてくれる人は、それだけでかすかな脈がある証拠だった。
そういうときは、ぼくは懸命に取材動機を話した。そういう店はたいがいどこもヒマそうだったから、他の客がいなかったことも幸いしたと思う。