マンションに変わった志村城。「守護神」は健在だった(ふらり城あるき10)
見上げると高さ20mほどの丘の上に、巨大なコンクリートの塊がそびえたっていました。地上16階400世帯以上が入居できる高級マンションです。不動産会社のサイトでは「天空の城」と紹介されていましたが、実はその通り。
このマンションが建っている場所は、戦国時代に激戦の舞台となった「志村城」の本丸なのです。「こんなマンションに住んでいたら、空き巣の心配もないな」と、想像をめぐらせてしまいました。
コロナ禍で育児に追われる日々。「そうだ、城に行こう」と一念発起
「ふらり城あるき」が、2年3カ月ぶりにDANROに帰ってきました。なんでこんなに連載が中断していたのかというと、実は前回の記事を掲載した4カ月後に結婚。翌年には娘が生まれ、育児に追われる日々が続いていたからです。
娘の誕生とほぼ同時に、コロナ禍に突入。仕事のほとんどが、自宅でのリモートワークになり、あまり外出もできません。ストレスがたまって免疫力が低下したせいか、1月ごろから病気が続き、通院する日々が続いていました。
「このままではいかん。そうだ、城に行こう」
そう思い立ちました。1日くらいは、育児や会社と無縁のことをしてみようと思ったのです。
5月中旬、私は都営三田線に乗って志村三丁目駅(東京都板橋区)までやって来ました。遠出をする余裕はなかったので、自宅のある台東区から30分ほどで行ける場所を選びました。
駅前にあるパチンコ店の横のゆるやかな坂を上っていくと、2分ほどで板橋区立志村城山公園に着きました。
住宅街の真ん中に、鬱蒼とした木々に覆われた崖があり、その前がちょっとした広場になっています。門とトイレはお城風なのですが、不思議なことに城跡の案内版は見当たりません。
自転車置き場から移動しようとした女性に「ここって城跡なんですか?」と聞くと「多分……」と心もとない返事が返ってきました。
来る前にパッとウェブで調べた範囲では「志村城跡は、都心では珍しく空堀の遺構が残っている」という記載がありました。お城はこの崖の上にあったのかもしません。
歩き回っていると、公園の崖を登っていく急坂を見つけました。マスクをしたまま息を切らして上っていくと、由緒正しそうな神社がありました。熊野神社です。社殿の前で立派な狛犬がにらみを利かせています。
後北条氏と千葉氏の激戦地。開発は進んだが「守護神」が空堀を残していた。
境内にある案内板を見ると「社殿西側の低地は本丸と二の丸との間にあった空堀の跡です」と書かれていました。どうやら、ここが志村城で間違いなさそうです。
社殿でお参りをしてから、西側に向かってみました。すると、鬱蒼とした林の中に、確かに空堀の跡のような場所がありました。長さは20メートルくらい。深さは2メートルくらいでしょうか。
堀の中は草が刈ってあり、林の中に道があるように見えます。途中で直角に折れ曲がり、社務所の建物の所で終わっていました。
堀の中から見あげた社殿が、少しお城っぽく見えました。空堀を挟んだ社殿の反対側には、巨大な高級マンションが木々の合間から顔を覗かせていました。
社務所の男性に聞くと、空堀は志村城の跡で間違いないとのこと。熊野神社はかつて志村城の「二の丸」にあり、城の守護神として祭られていたそうです。あの空堀は本丸と二の丸を分かつ、守りの要だったようです。
熊野神社の鳥居の近くに、板橋区教育委員会による「志村城跡」の石碑と看板が立っていました。それによると志村城は、室町時代の1456年に千葉自胤(ちば・よりたね)が近隣の赤塚城に入城した際に、一族の千葉信胤(ちば・のぶたね)が赤塚城の前衛拠点として整備したのだそうです。
出井(でい)川と荒川に挟まれた丘陵地帯にあった志村城は「守るに易く攻めるに難し」の難攻不落の城砦でした。しかし、小田原城を拠点にして急成長する後北条氏の勢いに千葉氏は圧迫されていきます。志村城も北条氏綱の手によって1524年に落城したそうです。
板橋区役所で郷土資料を漁って、志村城の現在の姿を確かめてみました。本丸は高級マンションと小学校。二の丸は熊野神社と幼稚園。三の丸は精密機器メーカーの本社などになっているようです。
現存する遺構は空堀などわずかとはいえ、戦国時代の痕跡です。開発が進む東京23区内でタイムカプセルのように残っているのは奇跡的です。
貴重な遺構を今に伝えてくれる熊野神社に「さすが志村城の守護神」と喝采を送りたい気持ちになりました。