大阪から沖縄へ売られた女(沖縄・東京二拠点日記 24)

辺野古の歓楽街。現在は営業していない店が目立つ
辺野古の歓楽街。現在は営業していない店が目立つ

1章を割いて「大阪から沖縄へ売られた女」のことを書いた。彼女にも何度もロングインタビューをおこなうことになる。彼女はいわば「ベテラン」で、真栄原新町はもちろんのこと、沖縄のなかのありとあらゆる売買春街ではたらいた経験を持っていた。

彼女にはこちらのほうから声をかけた。ある街の、一目で売春店とわかる古びた店の入口に座っていた女性だった。築50年以上は経っている木造建築を、売春宿用に改造されたような建物だった。

大阪から沖縄へ売られた女

ぼくは最初に彼女を見かけたとき、たぶん年齢的にも40歳前後だと思って、もしかしたらいろいろなことを知っているのではないかと思い、勘で声をかけた。

彼女は客が来たと思って、いっしょにその店のカビ臭い2階にあがっていくと、彼女専用の部屋があった。毛玉だらけの毛布があった。私は鞄から、記事のコピーを取り出して、彼女に渡して、手短に取材をしていることを話した。

時間は15分プラス幾分しかない。15分というのは、本番行為をする時間だが、その前後を入れたら、25分ぐらいもないだろう。その間に、ざっと記事に目を通してもらい、何をぼくが調べているのかを説明した。

彼女はその場ですぐにざっと目を通して、意図を理解してくれた。アタマの回転がはやい女性だった。そして、「(真栄原新町は)このとおりだったよ」と言ってくれ、協力することを約束して、携帯電話の番号を教えてくれた。

後日、彼女が住んでいた沖縄市に足を運び、何度も話を聞くことになるが、取材モードでインタビューを録音をしたのは、何度か酒席を経たのちだった。ぼくの誕生日に沖縄市で会うことがあり、2軒目に移動するときに、「お祝いをしてあげるよ」と言われ、ライブハウスに入った。

彼女が顔なじみのフィフティーズのアメリカのロックを演奏する店で、ぼくのためにバンドが誕生日を祝う曲を演奏してくれた。そこで店のスタッフから、「ストレイキャッツ」のDVDをもらい、今でも持っている。

彼女はそれまでの自分の人生の多くを沖縄の売買春街で生きてきたわけで、その街に愛憎入り混じった気持ちを持っていた。その街がなくなってしまうのと同時に、彼女の年齢も、心身的な疲労もそろそろ限界に来ていた。

そのときにぼくが現れた。だから、経験してきたことを話そうと思ったのだという。

手当たり次第、スナックに飛び込む

夕方から夜に手当たり次第、いろいろな店に出入りすることをぼくは繰り返していた。とくに年配の女性がやっているスナックには手当たり次第、飛び込んでみた。

知り合いから「あの店は古いよー」と聞くと、すぐに入った。少なくない確率で、昔は売春をしていたが今はスナックをやっている人がいたせいもある。

いろいろな街で年配女性が客引きをやっているが、ぽったくりは経験したことがない。ビール小瓶が1本1000円。半分が店の取り分で、半分が客を連れてきた方の取り分だ。

そういう店にはいってビールを飲んでは、タイミングを見計らって記事のコピーを取り出して、脈があるかどうかを聞いてみた。そこから広がった人脈も多い。

あるとき、あるスナックに勤めている人が電話をしてきて、とある女性を紹介してくれると言ったことがある。その人には記事のコピーを渡してあり、何人かの女性に読むように頼んでくれたのだった。

じつはその人は最初からかなり協力的な雰囲気を持っていたので、昼間に何度もコーヒーを飲んだことがある。いろいろな本を読んでいて、ぼくの取材テーマに関心を寄せてくれた。その人もじつは真栄原新町にいたことがある。

ありがたい。たまたま那覇にいたぼくはすぐに店に行ってみると、同じ年ぐらいの女性が待っていてくれた。真栄原新町や吉原ではたらき、いまはスナックではたらいている。ぼくの記事を読んで、話したいと思ったのだという。

彼女は自分の生い立ちを話してくれた。彼女の「語り」は沖縄の戦後史をなぞるように、今につながっていた。彼女の生まれ育った街は、ぼくも何度も歩いたことがある、かつての売買春街だった。現在はその痕跡はまったくと言っていいほどない。

かすかに、売買春がおこなわれていたかつてのスナックの一部が残っているのだが、彼女の話を聞いていると、かつて米兵たちが集まってはドルをばらまいた街を幻影のように思い描くことができた。

彼女はインタビューを終えたあとも、たまに連絡を取り合い飲んでいたが、あるときから、連絡がつかなくなった。やがて紹介してくれた人とも連絡がつかなくなった。人の流動性が高い街だし、他人の人生には関与しないのが暗黙のルールなのだろう。誰に聞いてもはっきりとしたことはわからなかった。

これはぼくの予想だが、紹介をしてくれた人は県外の街か、アジアのどこか都市に流れたはずだ。家族を捨てるように生きてきたその人は、沖縄を離れてもっと遠くに行きたいと口癖のように言っていた。

ぼくがインタビューした人は、鬱病をさらにこじらせたのだろうと思う。ぼくが会っていた時期も、かなりの量の抗鬱剤を処方されていた。

彼女は自分の人生を恨んでいた。本にはあまり書かなかったが、付き合ってきた男にずいぶん騙された経験を語っていたから、それもあっただろうと思う。「ちょんの間」での売春という仕事そのものがどれぐらい彼女の精神に影響したかはわからない。

ちょうどぼくがインタビューした時期は、精神的なリハビリを兼ねて紅型(沖縄の伝統的な染め物)をリハビリ施設のようなところで習っていた。それをぼくにプレゼントしてくれた。

そうやってぼくは、数えきれない数の店で飲んだと思う。

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