男がひとりで「編み物」をすると何が変わるのか?
これから編み物の話をするけれど、語っているのは「編み物」についてではない。
「差別」とか「偏見」につながる私の頭の中の話である。
あなたの頭の中の話でもある。
編み物で「ある実験」をしてみた
私は編み物の仕事をしている。
「編み物」とは、あなたのおばあちゃんやお母さんが編んでいたかもしれない、 マフラーとかセーターを編む、あの編み物である。
ワークショップやイベントで編み物の楽しさを伝えたり、関連企業へアドバイスしたりなど、「編み物」にまつわる様々な局面での仕事を、私はしているのだ。
以前の話になるが、「男性の私が街に出て一人で編み物をしていたら周りはどんな反応をするだろうか」と思って、ホテルのロビーやカフェ、公園などで実験をしたことがある。
編み物はなかなか良い「ひとり時間」の過ごし方としておすすめであるが、家から飛び出して外で編んでみたらどうなるのだろう、と思ったのだ。
感覚的にはここ数年で、編み物をはじめ手芸をとりまく雰囲気が少し変わってきて、男性でも少しやりやすくなった気がするけれど、この実験は2010年代前半にしたもので、今よりもまだ、男が編み物をしにくい感があった。
実験の結果はどうだったか?
実際に色々なところで編んでいると、奇異の目で見られた。
あからさまに気持ち悪がられたりはしないが、空気感が変になるのが肌でわかるのだ。自分の体も緊張してきて、なんとなく編みにくい。
場所によってはその緊張が全くないところもあったから、気のせいではない。
たとえば、洒落たホステルのカフェなどは編みやすかった。おそらく、外国人宿泊客が多いため、多様性を受け入れやすい場になっていたからではないかと思っている。
「なんかいいですね」と、ホールの人たちが入れかわり立ちかわり私の作品を見にくることも多く、時には初対面のゲストの方と2時間ばかり話し込むこともあった。
そのカフェで編んでいるうちに、「男が一人で編むこと」を気にしている私自身の頭の中を意識し始めた。「『ジェンダーバイアス』とは社会の側だけにあるのではなく、自分の頭の中にもあるのだ」と気がついたのだ。
おそらくは「多様性を受け入れる場」にいるうちに、その影響力を受けてそのようになったのだろう。
このように実際に話しかけられる時には、ポジティブな意見ばかりではなく、ただ珍しがられるものがほとんどだった。
実際には必ずしも危険がないのに、公園で編んでいる時に「編み針の先が危ない」などと言われたこともある。
編み針で危険ならボールペンはどうなんだろうと思ったので、そう言ってみたが、「ボールペンはみんなが使っているから問題ない」のだそうだ。
人は見慣れていないものに恐れを抱くのだろう。やはり、男が編み針を持っているのは「珍しい」のだ。
ジェンダーバイアス、あるではないか
そんな実験をしばらく続けたすえに確信したのは「まだまだ『ジェンダーバイアス』は世の中に存在する」ということだった。
それはそうである。
昨今、「多様性」だの「ダイバーシティ」だのと叫ばれているが、私がワークショップをしている学校へ行くと、家庭科の先生が
「うちの料理部にはスイーツ男子がいて、彼がエースなんですよ!」
と話してくれたりする。
内容的には、私も聞いて嬉しく思う話だけれど、その話が「ニュース」的な話題としてあがるのは、料理部に男子がいることが「少ないから」に他ならない。
大手週刊誌に「手芸男子が急増中!」などという記事が出るようになり、それは私にとって大変好ましいことでもあるのだけれど、実際の数はまだまだ少ない。
記事になるのは、その存在が珍しいからなのだ。
だいたいが「~男子」とか「~女子」とかいう言葉には気をつけた方が良い。
それはジェンダーバイアスを崩そうとする動きでもあるから、イベントなどで私を「編み物男子」などと呼ぶことに関しては自由にしてもらっているが、そのような言葉は「性差」という壁の存在を立証していることに他ならない。
へたをしたら性差の壁をさらに強めることになってしまうかもしれないので、私はなるべく使わないようにしている。
頭ではわかったつもりでいても
「編み物は、女性がやるものである。男がやるものではない」
編み物だけではない。こういう考えは、料理や木工、釣りやキャンプに至るまで、さまざまな行為についてまわっている。
「昔に比べたらそういうことも自由になった」という人もいる。
確かにそうなのだけれど、私たちの身体にしみついた固定観念はなかなか引き剥がせない。
厄介なのは、社会の側だけではなく、自分の頭にもしっかり根付いているということなのだ。
言葉では「多様性」「ダイバーシティ」などと口にして、頭ではわかったつもりでいても、ふとしたときに出てしまうものなのである。
そういうものは一つ一つは小さくても、雪だるまのように固まって偏見となり、それが「社会化」されたときに「差別」へと移行していくものだろう。実は大きな問題とつながっていたりするのだ。
ジェンダーバイアス「解体イベント」をやってみた
冒頭の「実験」をしばらく続けた末、私はある試みをすることにした。生徒たちがダイバーシティ活動をする高校で、とあるイベントをしたのだ。
まず男子、女子の混ざった生徒たちに簡単な編み物をしてもらう。
初めての人がほとんどだから、最初は戸惑っているけれど、そのうち「集中」して糸をたぐることに夢中になっていく。10分もたつと、みんな自分の手元しか見ていない。
これは、他の人と「一緒にいる」のだけれど、同時に「ひとり時間」を過ごしているという不思議な状態である。
この「集中」は、編み物をはじめとした「ものづくり」の楽しさであり、力である。
しばらく編んでもらったら、簡単にディベートをする。
はじめに、「さっき編んでいた時に『自分が男か?女か?』などと気にしましたか?」と聞いてみる。
みんな決まって「最初はそう思ったけれど、集中したら考えなくなった」と言う。面白いことに、集中して編んでいるとき、ジェンダーバイアスは無くなるのである。
歴史を見ると、男もけっこう編んでいる
それから、編み物の歴史の話をする。
実は歴史上、男性が編み物をすることは多く見られるのだ。
漁師や船乗り、海軍軍人など「海」に関わる仕事をしている男たちが編み物をする話は多い。
釣りをする時も編み物をする時も「針」と「糸」を使うから、という共通点が大きいと思うが、それだけではない。
遠くの国まで航海する船乗りたちは、長い時を過ごすための手慰みに編み物や刺繍を選ぶことがあるのだ。
歴史資料を出すと枚挙にいとまがないから、なるべく現在に近い日本の話だけあげてみよう。
私の祖母は、横浜で大きな編み物教室を開いていた。
その当時、横浜港に到着した外国人の船乗りが毛糸や編み針を求めてわざわざやってきたと聞いている。
千葉にはセーターを三日で編み上げるお爺さんがいて、ずっと漁師をやっていたという話も耳にしたことがある。
「うちのお爺ちゃん、編み物がうまかったのですが、たしか海軍でした!」と教えてくれた人もいた。
そのほか、銀行の男性事務員や大学の体育会系学生の間で、編み物が流行した時期もあると聞く。
男性でも「ひとり時間」の過ごし方の一つとして、「編み物」を選ぶことがままあるのである。
「自分バイアス」から解放される「ひとり時間」
前述のイベントのように皆で編み物をして、身体からジェンダーバイアスをひきはがしてから、編み物の歴史の話をすると、実に良い空気感になる。
おそらく、その場のジェンダーバイアスが無効化し、それに合わせて各々が感じている「生きづらさ」も解体されるのだと思う。
ジェンダーバイアスのような「人間をがんじがらめにしてしまうもの」は社会側だけではなく、それぞれの個人の中にも存在している。
それが解体されると、他の「自分をがんじがらめにしているもの」もほどけていくのではないか、と私は勝手に考えている。
もしよければ、あなたもここで紹介したような「ひとり時間」を過ごすことによって、自分の身体にしみついているジェンダーバイアスを引き剥がしてみてのはどうだろうか。
おそらく、無意識のうちに感じていた「生きづらさ」が減っていくはずである。
あなたが男性なら編み物がおすすめだが、男性でも女性でも、「自分の性別らしくないこと」を好きにやればよい。
もしくは「自分らしくないこと」でもよい。ジェンダーバイアスならぬ「自分バイアス」にがんじがらめになっているのが現代人だからだ。
やり始めてみれば「自分バイアス」が解体されることになるだろう。
その「ひとり時間」は楽しみになるだけでなく、明日からの活力になるに違いない。
ちなみに、私は時間ができると、お気に入りのカフェで編み物をして「ひとり時間」を過ごす。頭の中で大海原を航海する船乗りとなり、次に停泊する港に思いを寄せるのだ。
そんな「ひとり時間」もまた一興である。