ある日本人女性が誰にも言わず「香港の郵便受け」を撮り続けたワケ

ある日本人女性が誰にも言わず「香港の郵便受け」を撮り続けたワケ

香港の住宅に設置された「郵便受け」の造形に魅せられ、温かみのある写真をひとりで撮り続けている女性がいます。島津真紀さん(50代)。本業は真珠の販売やジュエリーデザインですが、その合間を縫って香港の郵便受けの写真を7年ほど撮り続けています。

銀行やコンピューター関係の外資系企業で勤務したあと、タヒチで黒真珠と出会った島津さんは、子育てや主婦業を経て宝石卸会社に勤務。その後、独立しました。現在は東京で、母と娘、猫2匹と暮らしています。郵便受けの撮影は「完全に趣味」ですが、何が彼女を引きつけるのでしょうか。

香港の住宅に設置された郵便受け

人の温もりが感じられる香港の郵便受け

「2009年にそれまで所属していた宝石会社を退社して独立し、ジュエリーの仕事をひとりで始めました。そのころ、世界中から良質なジュエリーが集まる展示会『香港ジュエリーショー』へ買い付けに行ったら、街中の独特な景色に魅了されてしまったんです。香港を訪れるのは1990年代以来、十数年ぶりでした」(島津さん)

かつてイギリスの植民地だった香港は、西洋的な空間と中国由来の東洋的な空間が渾然一体となり、独特の景観を生み出しています。2013年ごろ、その香港の街中で島津さんが最初に着目したのは、ビルとビルの間に張り巡らされた配管でした。

香港の配管

島津さんはもともと、ジュエリーの商品写真を撮影するために一眼レフカメラを持っており、気に入った対象物の写真を撮るのが好きでした。

「配管に”用の美”を感じたんですよね。狭い空間にグチャグチャに張られていて、無機質なようだけれど、毎日誰かに使われている。それを使っている人間の存在が感じられて、何とも言えない魅力があったんです」

日本でも近年、”工場萌え”がブームになりましたが、その感覚に近いのかもしれません。剥き出しの配管には、確かにある種のエネルギーが宿っているようにも見えます。

人の少ない早朝や夜間には、路上を走る大きなネズミに驚いたり、うっかり転倒して膝を擦りむいたりしたこともありました。こうして配管の写真を撮影するうちに、興味の対象がいつのまにか、住宅の壁にかかる郵便受けへと移っていったそうです。

香港の住宅の壁にかかる郵便受け

 「誰か住んでいる人がいるから、郵便受けがあるわけですよね。無機質な街並みのなかで、郵便受けはどこか人の温もりが感じられて、とてもかわいいと思えたんです」

機内誌で知った郵便受けの町工場

早朝から日没まで香港の街を歩き回り、郵便受けの写真を撮り続けた島津さん。時には不審者と間違われたこともあったとのこと。それでも英語で事情を説明し、トラブルは特になかったそうです。

郵便受けに魅了されたきっかけの一つは、日本から香港へ向かう飛行機のなかで読んだ機内誌でした。

キャセイパシフィック航空か香港エキスプレスのどちらかだったそうですが、英語の機内誌で、香港の郵便受けを製造している町工場が取り上げられていました。ブリキで作られたチープさが逆にオシャレに見える香港の郵便受けは、50年以上前から手作りで作られているのだそうです。

香港の郵便受け(木にかけられている)

「最近はステンレスでできた近代的な郵便受けを使う人が増えていて、昔ながらのブリキ製のものはあまり見なくなりました。自分用に買いたかったのですが、香港では見つからず、たまたまマカオに行ったら雑貨屋さんで80香港ドル(約1120円)で売られているのを見つけました。3000円ぐらいするのかなと漠然と思っていたので、うれしかったです」

購入時のやり取りも、思い出に残っているそうです。

「これは安いと思って『80ドル?』って店のおばちゃんに聞いたら、値切ろうとしていると勘違いされて『80ドル! ノーディスカウント』って言われちゃいました。もっと高くても買ってたと思います」

現在はコロナ禍で中断していますが、昨年までは毎年3回は香港へ行き、撮影を重ねました。撮りためた香港ポストの写真は数万枚に達し、数えきれないそうです。

香港ポスト

「好きな場所にいるとアドレナリンがわーっと出るのか、転んでも痛くないし、全然疲れないんです。撮影を終えると、急にひざがズキズキと傷んだりすることもあって、あ、転んでたんだと気づくんです」

家族にも秘密の「ひとり時間」

撮影を始めてから最初の3年間は、一緒に暮らしている娘にも伝えず、ひとりで黙々と撮影を続けていました。誰も知らない、自分だけの世界を楽しんでいたようです。

「家族にも親友にも、誰にも言ってませんでした。誰かに言って、何か言われて、自分の気持ちにブレが出るのが嫌だったのかもしれません。こんなことをやっているのは自分しかいないと思っていたので、『もう同じことやっている人いるよ』とか言われたら嫌でしたし……」

気の済むまで撮ったら個展を開こうと心に決めていた島津さんですが、2017年冬と2018年春には、それぞれ日本と香港で展示会を開くことができました。撮りためた写真を人前で発表する機会を得て、郵便受けへの偏愛がさらに深まりました。

香港の人に懐かしがられる郵便受け

「香港の人たちからは、『懐かしい。昔家にあった』なんて言われることが多かったです。展示会をきっかけに、香港通の人たちとも知り合う機会が増えました」

香港の郵便受けとひとりで向き合う時間が、島津さんにとってかけがえのないものになっています。

「これまでもひとりで考えて動くことが多かったし、今もひとりでラーメンや焼肉を食べに行くこともあります。目的があればどこまでも行けるし、別に寂しくもありません。離島や山間部など、これからも郵便受けを求めて撮り続けます」

郵便受けは中国語で「信箱」と呼ぶため、島津さんは「信箱写真家」を名乗り、活動を継続中。2月17日〜28日には、東京・府中のギャラリーカフェ「星星峡」で、香港の猫をテーマにした写真展「猫猫的香港」を予定しています。

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西谷格 (にしたに・ただす)

ライター。1981年神奈川県生まれ。早稲田大学社会科学部卒業後、地方新聞の記者を経てライターとなる。2009年〜2015年まで上海に在住し、中国の現状をレポートした。著書に『ルポ 中国「潜入バイト」日記(小学館新書)』など。東京都新宿区在住、独身。

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