物語は何かを「納得」するためにある〜時代小説「編み物ざむらい」横山起也さん

「正しく生きることだけがあなたにとって正しいのか」

編み物作家、横山起也(よこやま・たつや)さんが初めて手がけた時代小説『編み物ざむらい』(角川文庫)の一節です。

主人公は、編み物が得意な浪人の黒瀬感九郎。たまたま悪党を懲らしめる裏家業「仕組み」を手伝ったことから不思議な能力に目覚め、世の不正を“編み直す”という物語です。同作は高く評価され、第12回日本歴史時代作家協会賞の文庫書き下ろし新人賞を受賞しました。

その続編となる『編み物ざむらい(二) 一つ目小僧騒動』が、12月22日に発売されました。編み物業界の枠を飛び越え、時代小説に革新を起こした横山さんが、物語を「編む」理由を聞きました。

「正しさの檻」から抜け出すヒント

──『編み物ざむらい』を読んだとき、冒頭に出てくる「正しく生きることだけがあなたにとって正しいのか」という言葉に強く惹かれました。でもページをめくると、主人公の感九郎が父親から「正しく生きよ、と言うのがわからないのか!」と叱責されていて、「正しさとはなんだろう」と考え込んでしまいました。これらの言葉には、どのような想いが込められているのでしょうか。

横山:冒頭の言葉は、僕の心の奥底に元々あったものです。その言葉には色々な意味があって、例えば作法にこだわる余りに本質を見失ってしまうようなことなども当てはまります。何かを始めるときに、そのやり方が正しいか間違っているかを議論している時間があったら、「そのこだわりを捨てて、みんなで楽しもうよ!」と言いたくなる局面ってありますよね。

──確かに、正しさのあり様は人それぞれですよね。そして自分の正しさを主張し過ぎると、相手への攻撃になるだけでなく、実は自分にも「失敗できないプレッシャー」や自己肯定感の低下といった悪影響が及びそうです。

横山:はい、そうした正しさへのこだわりは次第に「正しさの檻」になります。と言いつつ、実は僕自身が「正しさ」に囚われやすい人間で、心底困っているテーマでもあるのです。「正しさの檻」から抜け出さないといけない…そうした僕の想いや経験が小説に影響を与えています。

──『編み物ざむらい』には、感九郎がひとりで編み物をしながら、自分と向き合うような場面がありました。編むことで自分の気持ちを整理していく感九郎の描写がとてもリアルで、「正しさの檻」から抜け出すヒントをもらったように思います。

横山:編み物に限らずですが、「ひとり時間」に自分と向き合うことはやはり大切ですね。自分と対話して、自分のことを少しずつ分かっていく。その経験の積み重ねが「正しさの檻」から徐々に逃れていくことに繋がるのではと思っています。

──そういえば、私も編み物をしているときによく過去を振り返っています。そして、「あのときは何も思わなかったけど、本当はつらかったんだな」と、見てみないふりをしていた自分の存在に気づくことがあります。

横山:続編の『編み物ざむらい(二) 一つ目小僧騒動』は、「本当にその過去の未来があなたの『今』なのか」という言葉から始まります。僕には編み物をしていてできあがった「編み地」は「過去」だと思えるんです。これは個人的な思い込みかもしれないのですが……。

編み物は、自分で作っている途中経過が目に見えます。それが僕には、先ほどまで自分が編んでいた「過去」を見ているように思えるんです。だから編み物をしているときに過去を振り返るというお話はよくわかります。

面白いことに編み物において、その「過去」はほどくことができるし、編み直すこともできます。皆さんも、セーターやマフラーがほつれたところからほどけて、糸になったことがあるでしょう。編み物は作った後も元の材料に戻せる珍しいものづくりの分野なんです。やり直しができるんですね。

そんなことに思いを馳せているうちに生まれたのが『編み物ざむらい(二) 一つ目小僧騒動』です。

横山:この新作では、感九郎の仲間のひとりで、己の「過去」にとても苦しんでいる人物がストーリーに大きく関わっています。作品を通して、自分の「過去」と向き合うことに関する一風変わった視点をお楽しみいただければと思います。

「物語」は自分を赦すことに繋がる

── 横山さんは、なぜ小説を書くのでしょう。なぜ物語を創るのでしょうか。

横山:物語は、何かを「納得」するためにあるのだと、僕は考えています。

物語の型の一つに、まず主人公に何かしらの「困りごと」があって、協力者なり敵対者なりに出会い、様々な試練を乗り越えて、欠けていたものが補われることで結末に至るというものがあります。その結末が多くの人の「納得」を得るからこそ、多くの人に親しまれる物語となり得ます。

それは創作に限りません。人は困ったときに心の中で物語を創り、「体験」することで自分の境遇を納得しようとしているのではないか、と僕は思うのです。

現実の生活での困りごとの多くは、完全に解決することが難しかったり、解決するのに時間がかかったりすることがあります。そんなとき、周囲に協力を求めたり、自分の行動を変容させたりして、「これならなんとかやっていけそう!」と思える落としどころを探る行為は、「心の物語」を創っていると言えるのではないでしょうか。

──自分を納得させるための創作であれば、作品を公表しないという選択肢もありますが、作品を「誰かに読んでもらう」ことにはどんな意味があるのでしょうか。

横山:書き上げた小説を出版社の方に読んでもらったときに、「この作品の登場人物は全部、横山さんじゃないですか」と言われたことがあります(笑)

言われてみれば確かにそうなのですが、僕は指摘されるまで気づかなかったんです。気づいたときは、なんて恥ずかしいんだろうと思いました。全部バレている、自分は丸裸で人の前に出るようなことをしているのだと、そのときわかったんです。

一方で、自分から生まれた物語を人に読んでもらって、反応が返ってくるという経験をしないと、向き合えない自分がいることもわかりました。

小説を書くときはひとりです。その「ひとり時間」に創られた作品が他者の目に触れる。そういう体験を通してこそ、「自分と向き合うことで生まれる他者との繋がり」が作られていくのではないかと思っています。

シリーズ2作目の『編み物ざむらい(二) 一つ目小僧騒動』を著した横山起也さん

──私は、『編み物ざむらい』のテーマには「赦し」も含まれていると感じました。そしてそれが「正しさの檻」から抜け出す方法の一つなのだと納得しました。

横山:作者や読者が「納得」できる物語というのは、煎じ詰めれば主人公が赦されるために存在していることが多いと思います。

『編み物ざむらい』も同様で、前作の終わりでは感九郎が「赦し」の感覚を得ています。読者の皆様にも爽快感を得ていただければと願って書いたのですが、つまるところ、僕自身が赦されたいのかもしれないと思っています。なんだか、私小説のようですね。

そうした文脈で語るならば、自分の内に癒されない傷があったとしても、元気に生きていくための力を得るために、僕は編み、物語を創るのかもしれません。

──私はこれまで、ひとり時間に「何か意味のあることをしなければならない」と焦ってばかりで、自分と向き合うことを後回しにしてきました。ですが今は、自分のためのひとり時間を大切にしようと心から思います。

横山:現代人は常に何かに追われていて、「ひとり時間」を必要としながらも、それを居心地悪く感じる方が多いように思います。「自分から休みを取るのが後ろめたい」と思う感覚はその代表ではないでしょうか。そうしているうちに、自分が何者なのかわからなくなるほど追い詰められてしまうのは、とても辛いことです。

そんなときこそ、ものづくりでも、旅でも、ひとりで自分に向き合うことが救いになるのではと思います。仮に嫌なことを思い出しても、その記憶を抑え込もうとしなくていいんです。「嫌な思いをしたね」と言って、自分の心をほどいて、編む。こうした時間は今の時代だからこそ求められていると、心底思っています。

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松尾しのぶ (まつお・しのぶ)

ライター/関西人/眼鏡作製技能士。下手なわりに、熱心に編み物と手紡ぎをしています。「上手じゃなくてもものづくりは楽しいよ」ということを伝えたいです。あとドローン飛ばせます。

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