カジノは「ギャンブル」をする場所か、それとも「体験」を買う場所か?
最近になり、外国のカジノ会社は「ギャンブル」という言葉を避けるようになった。
勝負事のイメージを薄めたいからだが、それに代わって彼らが好んで使うようになったのは「体験」や「満足」という言葉だ。
カジノで遊んだ体験や満足感こそ、カジノが提供するサービスだ、と彼らは言うようになったのだ。
聞いただけなら、まるでディズニーランドのようである。
でも、30年近く色んな国でカジノをしてきたぼくから見ると、カジノはやっぱりギャンブルだし、売っているのは経験ではなく、ゲームに賭けるチップやコインだ。
チップがなくなると客は負けたと思うし、ほとんどの人は負ければ悔しい。
どんなに負けても楽しければいいと思う人がいたとしたら、体験を買ったのではなく、暇つぶしをしたか、そうでないなら負け惜しみだろう。
もしカジノで本当に体験を買うというなら、勝とうとして真剣に戦い、負けたらきちんと悔しがることができてはじめて、カジノで体験を買ったといえるのだ。
黙々とスロットを回す老人たち
前回のコラムでも触れたアメリカのアトランティックシティの話だ。
若者が姿を消し、すっかり「老人の海」となったこの町で、かつて象徴とも言われたのは、トランプ氏が経営する「タージマハル」というカジノだった。
後に大統領になるなんて、まだ誰も(たぶん本人さえも)思っていなかった数年前、彼のカジノはこの町から撤退した。
それを引き継ぎ、2018年にオープンしたのが「ハードロックカジノ」である。
リニューアルしたばかりで床には靴の汚れもない。おろしたてのスロットマシンがフロアにズラリと並んでいた。
そこでギャンブルをしている老人の集団がいた。
ボタンを押すと絵柄が回り、止まるとまたボタンを押す。当たっても外れても顔色一つ変えない。まるで工場のラインでラジオでも組み立てているかのようである。
あたりを見回すと、大きなスクリーンにカジノのプロモーションビデオが大々的に映し出されていた。激しいロックをバックに、アニメのミュージシャンがギンギンにエレキギターを鳴らしていた。
ぼんやり見ていると、スクリーンに意外なものが登場した。
「赤ん坊」である。
目はギラギラし、どうみたって普通の赤ん坊ではない。
どういうことだろうと思っていると、赤ん坊の目の前に1ドル紙幣がヒラヒラと舞ってきた。よく見ると釣り針が引っかけられている。まるで魚釣りのエサである。
何だと思った直後、ぼくは「えっ?!」と声をあげてしまった。
突然、赤ん坊が両手を広げてお札に飛びついたのだ。
お札はその手をすり抜け、哀れ、赤ん坊はスクリーンの奥へと消えていった。
まるで奈落の底へ墜ちていくようだった。
このビデオは一体何を言いたいのだろうか? 赤ん坊でも金に目が眩むということなのか? それとも欲の深い人間は赤子のようだというのか?
賭け金が少ないスロットこそ危ない
そんなビデオには目もくれず、老人は黙々とスロットを回していた。
「どうです? 勝てそうですか?」
ぼくは迷惑を承知で話しかけた。すると老人は顔をあげ、
「勝つか負けるかなんてどうでもいいんだ。ここに来るのが日課なんだよ」
その言葉に納得しかけたが、すぐに「待てよ……」と思った。
彼の話は一見素朴だが、実はけっこう危ないものだ。勝つことではなく、ギャンブルをすること自体が目的となることが、依存症への第一歩だからだ。
老人はこう続けた。
「スロットは少しずつしか金が減らないし、こんなのギャンブルのうちに入らないよ」
競馬やテーブルゲームとは違い、スロットは一回の賭け金が少なく、外れた時の心理的ダメージも小さい。だが、そのせいでズルズルとやってしまい、気づいた時には大金を損している。パチンコに多くの人がはまるのも、みんなこのパターンだ。
ぼくは、ある首相の言葉を思い出した。
故竹下登首相は消費税導入のさい、納税感が薄く、国民の「心理的負担」が軽いことを強調していた。経済的負担ではなく心理的負担と言ったところがミソである。
つまり、一回に取られる額が少ないほうが、気づかれずにたくさんのお金を取れるというわけだ。
こんなのギャンブルじゃないと言って延々とスロットを回す老人たちを見ながら、政治もカジノもそっくりだとぼくは思った。