ランニングシャツとの別れと再会~元たま・石川浩司の「初めての体験」
若い人でも名前くらいは聞いたことがあると思うが、昭和のトップスターに山口百恵という人がいた。彼女が三浦友和と結婚して歌手を引退する時が実にカッコ良かった。最後のステージの歌が終わると、マイクをそっと舞台の床に置いて去ったのだ。これは伝説的な引退となった。
伝説の引退シーンに憧れて
今から15年ほど前、僕のやっていたバンド「たま」も解散することになった。解散コンサートで最後に僕も印象的なことをしようと思った。
たまのイメージのひとつが僕のランニングシャツ姿だったので、最後の曲が終わった時、僕は「暑いね・・・」と言いながら着ていたランニングシャツを脱ぎ、マイクスタンドに引っ掛けてステージを去った。
「キャー!」という悲鳴の中には、明らかに爆笑もはらんでいたのが山口百恵との違いだが。
それ以来、僕は定番だったランニングシャツを着るのをやめた。しかし、僕は山口百恵のように芸能活動から引退したわけではない。「たま」の解散後も、ソロや他のバンドではステージが続くことになるのだ。
ブラジャーと腰みの
それからは衣装選びが大変だった。相変わらずステージ上で動き回ってパーカッションを叩いたりするので、厚着はできない。なのでちょっと変わったTシャツとかを着て、なんとなく衣装として誤魔化していた。
ところが困ったのがパスカルズの海外ツアーである。ツアーは長い時には1カ月以上にもなる。意外とハードな旅行で、移動してはライブ、移動してはライブで、オフ日がほとんどない。衣装を洗濯する時間もないし、ましてや乾かす時間など全くない。
他のメンバーはそれほど汗もかかないが、僕はパフォーマンスで動き回るので、シャツはビショビショになる。そうすると、何十着もTシャツを持っていかなければならないのだが、それは物理的に不可能だった。
そこで考えたのが、ハワイアンスタイルで首にレイをかけ、上半身は裸、半ズボンの上にビニールでできた「腰みの」を付けるというもの。これなら洗濯もほとんどいらない。
その姿でフランスの大きなフェスに出たら興奮した女性のお客さんが、なんと自分の黒いブラジャーを脱いで振り回し、ついにはステージに投げ入れたではないか! これを使わない手はない。僕はすぐにステージの床に落ちていたそのブラジャーを拾うや自分の胸に付け、そこからのツアーはブラジャー+腰みのの姿でヨーロッパを回ったのだ。
奇抜な衣装で大失敗
また別の年のツアーの時には、はたといいアイデアが思いついた。
「ゴミ袋を着よう」
黒いポリエチレンのゴミ袋を持って行き、ハサミで首と腕の部分に穴を開け、それをすっぽり被って衣装とする。終演後はそのままゴミ箱に。使い捨ての衣装である。これなら数が多くてもかさばることもない。ガサガサと動く度に音がするが、それもリズムに合わせて動けば楽器のひとつにもなる。これはなかなかの成功アイデアであった。
しかしこういうことを続けていくと、だんだんと「次回はもっと面白い衣装を考えよう」とエスカレートしていってしまうものである。日本最大級のロックフェス「サマーソニック」にパスカルズが呼ばれた時、事件は起きてしまった。
その時の僕の衣装は、妻のセパレーツの水着。「これでステージに出たらウケるぞうっ!」。そう思ってステージに飛び出た。案の定、つかみはいい感じで笑いが起こった。しかし、ふとパスカルズの女性メンバーの顔を見ると、怪訝(けげん)な表情をしている。
これまでのツアーでは、ブラジャーと腰みのだったり、ゴミ袋の服だったりと変な格好をしてきたので、メンバーには免疫ができているはずなのにおかしい。
その時である。何か下半身がスースーするのに気づいて、「んっ?」と思い、しずしずと手を股間の方に持っていった。すると…
「・・・出てる!」
そう。女性用の水着は男が着るようにはできていないので、タマが左右両方とも勢いよく「こんにちはー!」していたのだ。「たま」は解散したが、大舞台で「タマ」は活躍したかったのだろうか。
必死にタマをグイグイ押し込んだが、ちょっと動いてパーカッションを叩く度にまた「まいどー」と登場。結局、最後は内股をクネクネさせながら演奏していた。
ランニングシャツのフィット感
そんなこんなで「この後、衣装はどーしていくべい」と悩んでいた時であった。珍しく回転しない西荻窪の寿司屋に妻とふたりで入ることがあった。カウンターしか空いていなかったので、そこに座ると、隣の男性が「あれっ、石川くん?」と声をかけてきた。
僕は人の顔が病的に覚えられないので、「あれ?誰だろう」と思ったら、NHKの「あまちゃん」の音楽でブレイクする直前の大友良英さんだった。大友さんは、フランスのイベントでご一緒したこともあったミュージシャンの先輩だ。慌てて襟を正し、映画音楽の話をしている時、後ろの座敷席の方から女性の声がかかった。
「あのお・・・大友さん、うちの父の映画にも音楽つけてくださいましたっけ?」
なんとその女性は大監督の大林宣彦さんの令嬢で、自身も映像作家である大林千茱萸さんだった。千茱萸さんは僕らパスカルズのことも知っていてくれた。何という偶然であろうか。大友さんと千茱萸さんと僕の3人で話が弾んだ。
それからほどなくして一通のメールが届いた。千茱萸さんからだった。
「今度、父が『この空の花 長岡花火物語』という映画を撮るのですが、それに山下清役で出てほしいのですが」
映画出演のオファーだ。坊主頭とランニングシャツ、半ズボンという「たま」時代の僕の姿から、「おーい、山下清~」とはよく言われていたが…。瓢箪から駒、本当に山下清役のオファーがくるとは思わなんだ。もちろん即座にOKした。
さて、今回は役柄の衣装だからと久しぶりにランニングシャツに袖を通した。するとどうだろう、このフィット感。まるで自分の皮膚のように吸い付くではないか。そして久しぶりに得たこのなんとも言えない安心感はなんだ。
その時に気づいた。「たまを20代から40過ぎまでやってきて、もうランニングは僕の体そのものになっていた。嗚呼、僕は自分に嘘をついていた」と。解散後、腰みのやゴミ袋や妻の水着などいろいろ着てきたが、それらは自分の意識を糊塗(こと)していたのだと。ランニングこそ、やはり自分が着るべきものだ。生涯、僕はランニング男なのだ――。
ちょうど「たま」が解散して10年目だったので区切りもいい。僕は「ランニング復活宣言」をすることにした。その頃、タイのチェンマイで、元たまのメンバーの知久君のライブにゲスト出演する機会があり、ネットで配信することも決まっていたので、「戻りま~す!」とそこで宣言した。新しいランニングシャツはチェンマイの市場で盟友の知久君に選んでもらった。こうして僕は元どおりのランニング姿に戻ったのであった。
ただ、僕のランニング姿はあくまで衣装で、ステージや取材の時に着ているだけ。決して普段着ではない。もし街で坊主頭にランニング、半ズボンでヘラヘラ笑いながら道を歩いている中年男がいても、たぶん僕じゃない。もしかしたら何らかの危険性がある人の可能性もあるので、深追いはやめた方がいいことを一応警告しておく・・・。