ひとり飲みの作法とは 酒場詩人・吉田類が語る「孤独を謳歌する方法」
「お酒に失礼なことはしない」。酒場詩人・吉田類さん(69)がお酒を飲む際、自分に課している掟だそうです。テレビ番組『吉田類の酒場放浪紀』(BS–TBS)で、全国の味わい深い居酒屋を訪ね歩いている吉田さんは、酒飲みたちの憧れの的となっています。東京・銀座で個展を開いていた吉田さんを訪ね、酒場で他の客とすぐに打ち解けるコツや「終始一貫して臨機応変」という座右の銘のワケを聞きました。
「酒は人の上に人を造らず」
ーーお酒を飲むとき「これだけはやらないようにしている」という“自分ルール”はありますか?
吉田:「絶対に他人に迷惑はかけない」というのがあります。自分が楽しく過ごすための鉄則でしょうね。お店では他人とひとつの空間を共有するわけですから。自分が楽しく過ごしたかったら、やっぱり相手を認めるべきで。相手には一目置くようにしています。
ーーそれは、相手が若い人の場合も同じですか?
吉田:年齢は全然関係ないですね。「酒は人の上に人を造らず」。まさにその通りなんです。自由民権運動の思想家で植木枝盛という人が『民権数え歌』というのを作って、「人の上に人があっちゃいけない」ということを言った。福沢諭吉が『学問のすすめ』のなかで出した言葉でもあるわけですけども、植木も私も土佐出身だから、それをもじった表現があってもいいんじゃないかと思っていて。「酒は人の上に人を造らず」。これを肝に銘じています。
ーーひとりで居酒屋に行く場合、他のお客さんにどうやって話しかければよいのでしょう?
吉田:僕の場合、下町の大衆酒場が自分のエリアだったから、お店に入ると、いきなり知らない人と顔を見合わせるわけです。「コの字」カウンターだと特に。すると、ひと口目でだいたい他の人と視線が合うので、「ニコッ」としてから飲む。これでもうOKです。
ーー『吉田類の酒場放浪記』では、いつも陽気にお酒を飲まれていますが、いわゆる「ヤケ酒」をすることはないのでしょうか?
吉田:そういうお酒に失礼なことはしません。これまで自分の悲しみを癒すためにお酒の力を借りたことがあったかもしれませんが、だからといって、ヤケにはなりません。お酒によって癒されるんです。特に、17年間飼っていた猫が死んじゃったとき。5年くらい立ち直れなかったんです。その悲しみを癒してくれたのは、お酒でした。
ーー他人に失礼である前に「お酒に失礼」という考え方は面白いですね。
吉田:みんながそんな風に思えば、お酒が中心になって、その場が盛り上がるんじゃないかと思いますね。
創作活動はあくまでも「個の関わり」でしかない
ーー若いときからそういう飲み方だったんですか?
吉田:すぐに溶け込むというのは、今も昔も変わらないですね。絵の勉強でヨーロッパを旅したときも、言葉がわからなければ絵でコミュニケーションをとりました。当時はスペインの田舎に行くと、日本人を見たことのない人たちがいるわけです。バーの店員なんか、僕の顔の30センチくらい前まで顔を近づけて不思議そうに見ている。そこで絵を描いて「これわかる?」と言うと、すぐにほしいものが出てくる。向こうではアーティストって特別な存在らしくて、僕を見る目が変わっていました。
ーーところで「類」という名前は、どんな由来があるのでしょう?
吉田:これはですね、母親が変えたんです。僕は小さい頃、家を出たらなかなか帰らないくらい遊び好きだったんですよ。放浪癖があった。何が悪いかといったら、昔の人は「字画」と考えたんですね。それで、画数と一字で収まるというので、10代のとき母親が「類」と呼ぶようにしたんです。
ーーでも、いまも「放浪」されていますよね。
吉田:そうそう。なんのアテにもならないんです。単なる迷信でしょうね。昔の人は画数で人格が変わると思っていた。江戸時代の(何度も雅号を変えた)北斎と同じように、名前が意味を持つと思ったんでしょうね。
ーー類さんが描かれる絵には、不思議な柔らかさがありますね。
吉田:僕がずっと描いてきた絵はシュルレアリスム。「超現実」という意味なんですけども、細密描写の世界を描いていたんです。それが、あるときから精神的に疲れるようになった。要するに、和めない。絵画としてどう評価するかは別として、自分が笑ったり癒されたりしないわけですよ。もっとラフで、見てにっこりできるようないまの絵のほうが、描いているこっちもストレスがないんです。
ーー自分が楽しむことを大事にしている、と。
吉田:創作活動は、あくまでも「個の関わり」でしかない。あとは、その時間をどう生きるかってことですけど、ただ夢中で楽しむ。ひとつ絵を描いたら「楽しいな」、ひとつ原稿を書いたら「ほっとするな」。そういうことを心がけてきたんです。その延長ですね、僕の場合は。その延長で登山も始めました。いまは単独行が主になってきたんです。
ーー絵を描くことと登山とは、対象的な感じがします。
吉田:そんなことはないんです。僕のおおもとは変わらない。表現上必要なこと、あるいは楽しいと思うことしか、やってないんですね。最初は渓流釣りに凝っていたので、日本の河川を旅しました。特にイワナがターゲットだった。イワナを採るためには山奥に入るしかないんです。あれは氷河期の生き残りで、寒いところにしかいない。寒いところっていうのは、標高の高いところです。僕は、山のなかでひとり過ごすのは怖くないんですよ。山の奥のほうにテントを張って、自然と対話しながら孤独を謳歌してきたんです。孤独を味わうという意味では、絵を描いたりすることも基本的には同じなんです。
ーー都会から離れて、寂しいと思うことはないんですか?
吉田:客観的には孤独かもしれないけど、やっぱり充実してますね。登山した中で、札幌にある藻岩山というのがあるんですけど、そこにヒグマがいるんですよ。あと少しで出られるというところまで下りたとき、下からエゾジカが飛ぶように登ってきた。警戒音を発しているわけです。それを聞いたとき、「あ、ヒグマがいるな」とわかった。下からガサッガサッって音がするわけです。そのあいだを通って帰らなきゃならない。怖いなと思ったけど、そういうのが好きになって、また北海道に行くようになったんです。
ーー自然のなかにいるほうが、肌に合っているのでしょうか。
吉田:そうですね。かといって、人間に絶望したってわけではないんですけど・・・。だけど、難しいじゃないですか。「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」。それと同じだと思うんです。人間誰でもそうなんだけど、そんなに四方八方、丸くハッピーに収まるわけがないですよ。生きているというだけで、心を傷めることもあります。だったら自然のなかに身を置いたほうが解放される。これはもう、やめられないですね。
ーーその一方で、人と接することもお好きなように見えます。
吉田:すべては臨機応変です。細菌学者の北里柴三郎の座右の銘に「終始一貫」というのがあるんですが、これをみて「僕とは真逆の人だな」と思ったわけです。そこで、それをある意味パロディにして、座右の銘を「終始一貫して臨機応変」にしたんです。「終始一貫して臨機応変」。これがなかったら、山に行ってもサバイバルできないよと言っているんです。