最北の港町で出会った「サハリン地ビール」と「南フランス」

日本最北の地まで来てみたら・・・(イラスト・古本有美)
日本最北の地まで来てみたら・・・(イラスト・古本有美)

「ここまで来たらサハリン地ビール」

北海道の北端、稚内空港(稚内市)でこんな看板を初めて見たのは2006年2月である。北緯45度31分。「日本最北端の碑」がある宗谷岬からロシア・サハリン(旧樺太)までは43キロしかない。「ここから先はヨーロッパだよ」と地元の人が言う。

たしかに「国境の街」だ。カニを運んできた運搬船の乗組員などロシア人がよく買い物をしていたし、温泉にもやってきた。港近くにはロシア料理を出すレストランもある。市役所には「サハリン課」があり、ロシア語が堪能な職員が控えている。

いずれにしても、ロシアの美しい女性がグラスを手に微笑んでいるのだから飲まないわけにはいかない。早速向かったのは、輸入販売を手がける市内のスーパー「ユアーズ」。サハリンのビールメーカーと交渉し、2000年に販売を始めたという。

日本のラガーやドライビールに慣れた人には少し甘めに感じるかもしれない。のどごしを楽しむというより独特の風味を味わうという感じだろう。「ユアーズ」の今村光壹社長に聞くと、看板を空港に設置したのは2003年。「国境の街をPRしたい」というのが理由である。看板のモデルは、サハリンから稚内に流通業の実習に来ていたロシア人女性を起用したそうである。

稚内の夜の街には面白そうな店が残っている

少しアルコール度数が高いのか。ビールの酔いが回ってきた。この日の稚内は大雪。気温は零下10度は下回っていただろう。「ここまで来たら飲むしかないべさ」(北海道弁?)と開き直り、タクシーで飲み屋街に向かった。

雪景色に浮かび上がる青と白の看板が見えた。スナックである。名前に驚いた。「南フランス」。最北の港町で南仏に出会うとは……。カウンターの中には地元生まれのママ、池田美恵子さん(68)がいた。高校卒業後、東京や沖縄で暮らしたが、稚内に戻り、1977年に店を開いたそうである。「海の向こうの遠い世界に行きたいと思っていました。ヨーロッパ映画が好きだったんです」と言う。表の看板は、南仏への憧れを込め、太陽と海をイメージしたものだった。

スナック「南フランス」がオープンしたころは、200カイリ漁業規制が始まった時代だ。だが稚内の港はまだ北洋漁業の基地として活気にあふれていた。飲み屋横丁は肩と肩がぶつかるほどにぎわっていたという。

その名残だろう。稚内の夜の街には、面白そうな店があちこち残っている。例えば「FBI」というキャバクラ。正真正銘の日本最北のキャバクラである。怪しげな名前だが、「フラッとビールで一杯」が縮まったという説がある。

カタカナで「オサム」だったか、平仮名で「おさむ」だったか忘れてしまったが、日本最北のオカマスナックもあった。カラオケ歌い放題3000円。マスターは子どもが好きで、子連れのお客さんがいると、子どもたちに駄菓子やジュースを無料でプレゼントしていた。娯楽の少ない街ではスナックに子どもを連れてくる客も少なくない。要は家族で楽しむ、という感覚なのだ。だが、あのオカマスナックは閉店してしまった。マスターが病気で亡くなったため、と風の便りに聞いた。

それにしても最北の町歩きは面白い。「ラーメンは北へ行くほどうまい」という看板がある。塩ラーメンが名物の「庄内食堂」はいまも健在だ。以前、私は記事を書いたが「『お母さんの味』48年 庄内食堂、稚内の『世界遺産』」という見出しがついた。誇張ではない。まさに「世界遺産級」のおいしいものが、最北の街にはたくさん詰まっているのである。

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小泉信一 (こいずみ・しんいち)

1961年生まれ。朝日新聞編集委員(大衆文化担当)。演歌・昭和歌謡、旅芝居、酒場、社会風俗、怪異伝承、哲学、文学、鉄道旅行、寅さんなど扱うテーマは森羅万象にわたる。著書に『東京下町』『東京スケッチブック』『寅さんの伝言』など。

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