記者になった翌日、いきなり大事件が起きた(青春発墓場行き 12)
晴れて記者となった翌日、いきなり大きな事件が起こった。ライブドア事件だった。記者のイロハも知らない僕とNくんだったが、夕方、さっそくデスクに呼び出された。そしてこう言われたのだった。
「神戸に行ってきて」
村上ファンドでおなじみの、村上世彰の地元・神戸に行って、彼の情報を集めて来ることを命じられたのだった。展開が早すぎて、何がなんだかわからなかった。ついて行けていない。
そして、バサッと紙の束を渡された。それは、村上世彰の出身校の名簿だった。
「何かとってくるまで帰ってこなくていいから」
そう冷たく突き放された僕らは、不安極まりない面持ちで、夜には、神戸行きの新幹線に乗っていた。
電話をかけまくったが、ほとんど断られ…
取材ってどうすればいいのだ。まずはそこから知らない僕らは、指導係の編集者にこう命じられた。
名簿に載っている同級生の電話番号に片っ端から電話をかけて、
「村上世彰の話を聞かせてほしい」
と取材を申し込むように、と。さらに、
「写真を貸してほしい」
と依頼することも、付け加えられた。
これは後から実感したことだが、話は聞けても、写真となると一段ハードルが高くなる。まずは取材を申し込んで、話を聞きながらある程度信頼関係を築けないと、写真は貸してくれない。
この作業、考えているよりもはるかにキツイ作業だった。どうしてかというと、誰も答えてくれないのだ。雑誌の名前を言ったとたんにガシャンと電話を切られるパターンが半分くらい。あとはやんわり断られるパターンがほとんど。
いったい何百件電話しただろうか。答えてくれたのは、2人くらいだった。そのうちの一人は、名簿によると英語の先生だった。先生は、
「翌日、よければ学校にきてください、そこでゆっくり取材に答えますよ」
といってくださったのだ。ああ、神様はいた!これで編集部に帰れる!
翌日、喜び勇んで、僕とNくんは、村上世彰の母校に行った。そうしたら、電話でやりとりした、英語の先生だったはずの人は、なんと校長先生に出世していたのだった。
やっと見つけた取材先。でも電話の相手は…
そして、僕らは、応接室に通されたのだが、僕らがソファに座っていると、校長先生が誰かと電話で話し始めた。耳をそばだてると、
「なんか卒業アルバムの写真を貸してほしいっていってるんやけど、いいか?」
と言っている。
なんと、電話越しの相手は村上世彰本人だったのだ。完璧に僕らは踊らされていたのだ。結局、僕らは本人公認の校長先生の話と卒業アルバムの写真を借りて、編集部に戻った。
材料が揃っていたことで、ページは確保されることになった。次は記事の執筆だ。僕らは、最初から掲載記事を書かせてもらえるわけではない。掲載記事を書く人が参考にするデータ記事というものを書くことになる。それでも、それすらもどう書けばいいのかわからない。
編集の先輩は、
「とりあえず書いてみて」
と、言ったきり、何も言わないので、何も考えずに書いてみることにした。それを提出すると、素人の文章だと思いっきりダメ出しされた。そりゃ素人ですから……。
「誰もお前の意見なんて読みたくもないから。事実だけを書いて!よろしく!」
すぐに書き直して、なんとかOKが出た。
こうして、なんとか、初めてづくしの記者業務を一通り経験したことになった。
なんだか、苦い初戦だった。でも、こんなもの、全然甘っちょろい、たいしたことのない、取材のうちにも入らない、楽なほう。
胃がキリキリするような種類の取材が、もっと死ぬほどあることに気づくのは、そう遠くない未来のことであった。