寝たきりの老人が立ち上がる!? 「入れ歯」で奇跡を起こす! 83歳の歯科医の挑戦

加藤歯科医院(神奈川県横浜市)の加藤武彦・医院長
加藤歯科医院(神奈川県横浜市)の加藤武彦・医院長

「あること」をしたら、寝たきりだったおじいちゃんが立ち上がった! 無口だったおばあちゃんがしゃべり出した! その「あること」とは、入れ歯の修理です。

歯科の訪問診療が珍しかった1970年代から診療所を飛び出し、要介護となった高齢者の口の悩みを解決してきた歯科医師がいます。加藤歯科医院の加藤武彦・医院長(83歳)です。周りの理解を得られない中、孤軍奮闘しながら、ひとりで歯科の訪問診療の道を切り開いてきました。噛んで食べられる入れ歯で奇跡を起こす加藤先生の活動を追いました。

悪態をつく高齢患者が治療後に変化

先生、何をされたんですか?ーー。訪問先で治療をした数日後、再び患者の自宅を訪れると、保健師からそう言われた加藤先生。件の患者はリハビリに誘っても拒否、介護職員には悪態をつく、そんな認知症患者でした。

ところが、加藤先生が治療をした翌日からは外出をし、リハビリにも参加するように。保健師たちはその変わりように驚き、先のように訊ねたのでした。加藤先生が行ったこと。それは入れ歯の修理です。

「落ちたり、浮き上がったりする総入れ歯をその日のうちに修理・改造して、噛んで食べられるようにし、現役時代の顔貌を再現する。それだけで鬱々とした気持ちが切り替わり、生活が変わってしまう患者さんは多いんです」(加藤先生)

通院できない患者にも歯科医療を

訪問先の居宅で入れ歯の修理・改造を行う加藤先生

現在、日本人の死因の第3位は肺炎です。とりわけ、食べ物などが誤って気道内に入ることで発症する誤嚥性(ごえんせい)肺炎は高齢になるほど増加します。特に認知症を患っていると顕著です。その理由は口の中の清掃が十分に行われないことにあります。

そこで注目されているのが、歯科医師や歯科衛生士が通院できない患者のもとへと出向き、専門的なケアなどを行う「訪問歯科診療」です。

加藤先生が訪問診療を行うようになったのは40年以上も前のこと。当時は高齢者の口の健康に関心を抱く医療従事者はほとんどいませんでした。

「日本の高齢化が始まったのは1970年前後です。その頃から全身の機能が落ち、通院できなくなった患者さんが増え始めました。ところが歯医者が治療をするのは、診療室に通って来る患者だけ。どんな患者さんであっても診療するのが本当の歯科医療ではないでしょうか」

「最後にもう一度、口から食べたい」

こうした思いから訪問診療を始めた加藤先生。当初は、看護師などから「歯医者は介護現場では邪魔になるだけ」と罵られたことがあったそうです。

「歯科の必要性を認めてもらうために、高齢患者が本当に望んでいることは何かを徹底的に考察し、診療も毎回、真剣勝負でした」

高齢患者が望んでいること、それは何なのでしょうか。

「噛んで口から食事をすることなんです。一度でいいから、介護食ではない普通の食べ物が食べたい。そんなことを大多数の方が望んでいます。ところが、噛んで食べられるようになるところまで診られる歯科医師が少ないのが現状です」

こうした現状を受け、加藤先生は噛んで食べられるオリジナルの入れ歯を作りました。

高齢者が噛んで食事ができなくなるワケ

ところで、どうして高齢患者は噛んで食事ができなくなるのでしょうか。

歯茎は歯が失われると土手のように残ります。一般的な入れ歯はこの土手に乗せ、唾液の吸着力などによって固定します。しかし、歯が抜けた歯茎ではやがて、顎の骨がやせ細る「顎堤(がくてい)吸収」が起こり、20年ほどで平らになってしまいます。すると、接着面が小さくなり、入れ歯の固定が難しくなるのです。

入れ歯を装着した歯ぐきの断面図。歯が失われると歯ぐきの内側にある骨(歯槽骨)は次第に吸収され、消失する。そうなると、従来の入れ歯では合わなくなる

「現在の大学では、顎堤吸収を想定した入れ歯の実技については学びません。あまつさえ、今は100歳の患者も珍しくなく、歯を失ってから長い年月が経ち、顎堤吸収が強く進んだ患者が増えているのです」

では、なぜ、加藤先生の入れ歯は噛んで食べられるのでしょうか。

「なくなった骨の量だけ、義歯床(入れ歯の土台)を増やし、自然の歯がもともとあった位置に人工の歯を並べているんです。そして、顎堤面の吸着だけに頼らず、頬や唇の筋肉、舌など、入れ歯の外側からの抱き込みの力も利用して安定させます。このデンチャースペース義歯(加藤式)は強い吸着が得られるため、堅いものでも食べられるようになります」

デンチャースペース義歯のイメージ図。頬筋や舌など、入れ歯の外側からの抱き込みの力も利用して吸着を得ている

入れ歯で顔貌が若返る!?

噛んで食事ができると栄養状態がよくなり、顎をよく動かすので脳内の血流も活発になります。その結果、寝たきりだった患者が歩けるようになるケースもあるのだとか。「入れ歯が合わないとしゃべるのも大変です。なので、治療後に無口だった方がしゃべるようになることもあります」。

加藤先生の入れ歯にはさらなる効果があります。それは顔貌が若返ること。

顎堤吸収が進むと、口元が内側に落ち込み、老け込んだ顔になります。一方、加藤先生の入れ歯は吸収された骨の量を義歯床で補うため、唇が内側からしっかりと支えられるので、若々しい顔貌となるのです。

「現役時代の輝いていた頃のような口元に戻ると、皆さん、生き生きとします」

92歳の女性。初診時は、すぐに外れる上顎の入れ歯を舌で常に抑えているような状態だった(左)。新しい入れ歯にして、噛んで食べられるようになると顔の血色もよくなった(右)

オリジナル入れ歯を作ったきっかけ

加藤先生がオリジナルの入れ歯を考案したのは、認知症患者に入れ歯を投げ捨てられたことがきっかけでした。

「『こんな物、入れてられるか!』と怒鳴られたんです。当時、認知症は痴呆と呼ばれていました。痴呆とは本来、『愚かな人』という意味。しかし、その方の目は、しっかりとした意思を持って私を叱っていました。直感的に『認知症でも多くのことを理解している』と感じました」

この経験から加藤先生は認知症に関する勉強を重ね、認知症患者は五感で物事を感じていることを知ります。

「認知症になると大脳の認知機能の一部が失われますが、生きて行く上で必要な感覚や感情などは残り、五感を頼りに物事を判断するんです。そのことがわかると、先の患者は理由もなく入れ歯を投げ捨てたのではなく、作った入れ歯が本来の自分の歯があった位置より内側に配列されており、我慢できなかったのだと気がつきました。その頃から従来のセオリーのまま入れ歯を作っていては、高齢者の口には対応できないと感じるようになりました」

患者の喜びを我が喜びとする

加藤先生は今でも現役で活躍している

およそ60年前の1961年3月、大学の卒業式を目前に控えた加藤先生は、要介護状態だった母親を亡くしました。「歯医者になったら最高の入れ歯を作ってあげる」。それが生前の母親と交わした約束でした。

ほとんどの医療従事者が高齢者の口に関心を示さなかった時代から、ひとりで訪問診療を続けてきた裏には、そんな亡き母との約束があったのです。

「患者の喜びを我が喜びとする、その一心で診療を続けてきました。訪問診療はインプラント治療のように華やかな分野ではないかもしれない。でも、本当に困っている患者さんの要望に応えると、この上ない笑顔と出会うことができるんです。あまり金持ちにはなれないけれど、たくさんの笑顔と出会うと蔵が建つんです。心の中に大きな蔵がね」

笑いながら、そんなふうに話す加藤先生は今でも臨床医として現場に立ちます。そのかたわら、全国訪問歯科研究会(通称、加藤塾)を主宰し、後進の育成にも尽力。今では多くの弟子が全国にいます。

「食べられるところまでしっかり診るという、高齢患者が本当に望む医療を今の歯科界は提供できていません。それを思うと悔しくて仕方がないんです」

本格的な超高齢社会を迎えた日本では、今後も口の健康に悩みを抱える高齢者の増加が予想されます。これからも「心に蔵を建てる」ため、そして、高齢患者が本当に望む医療を提供するため、加藤先生の挑戦は続きます。

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