新聞記者を辞めて俳優の道へ「カメ止め」出演の合田純奈さん「死ぬ直前に後悔したくない」
大手新聞社の記者の仕事を辞め、俳優の道を歩み出した女性がいます。元朝日新聞記者の合田純奈(ごうだ・あやな)さん(26歳)です。2018年にヒットした映画『カメラを止めるな!』では、新米ADを演じました。その姿を記憶している人もいるかもしれません。
低予算のインディーズ映画『カメ止め』が撮影されたのは、合田さんが大学生だった2017年。その翌年、朝日新聞に入社し、福岡にある西部本社に赴任したら、『カメ止め』がまさかの大ヒットを果たしたのです。
合田さんは約2年間、新聞記者として働きました。しかし2020年1月、俳優になるため、会社を辞めて、ひとり東京に出てきました。
俳優は新聞社員と違って、人並みの生活が約束された仕事ではありません。新たな一歩を踏み出すまでにどのような葛藤があったのでしょうか。また、安定した職業を手放したことに後悔はないのでしょうか。
コロナ禍のなか、手探りで夢を追う合田さんに話を聞きました。
本当にやりたかったこととの狭間で「毎日毎日泣いていた」
ーー2020年1月に新聞社を退職したということですが、その後の活動について教えてください。
合田:会社を辞めて、すぐ東京に出てきました。演技の勉強ができるワークショップなんかを探していたんですが、新型コロナがあって、すべてストップしてしまって。演技の勉強を少しずつ重ねていこうと思っていたので、すごく焦りがありました。収入もまったくなかったので、5月くらいから半年くらいライターをしていました。
ライターの仕事は経験値にもなって、魅力的ではあったんですけれども、演技の活動ができないので、東京に来た意味があまりないなと思うようになりました。でも、状況が若干落ち着いて、ワークショップが再開したので通い始めたら、タイミングもよかったのか認めてもらえて、『アリスの住人』という映画に出演するきっかけになりました。
映像の現場を生で見たいというのもあって、少し前までは、TVドラマの助監督の仕事もやっていたんですけど、その作品が終わったので、 今は演技をがんばりたいと思っています。
ーー退職した時点で、俳優事務所から誘いがあったり、作品への出演が決まったりしたわけではないんですね。
合田:まったくなかったんです。自分のなかで「やらなきゃいけない」と思って、東京に出てきました。
『カメ止め』がヒットしたのが2018年の後半ですが、実は2019年に入ってから「俳優をやりたい」とずっと悩んでいました。新聞記者はやりたかった仕事で、自分のなかで区切りもついていなかったけれど、「やりたい」と思っていることを無視していいのかと。そこに葛藤がありました。
「俳優をやりたい」と人に話すと、「バカ言うなよ」とか「夢を追いかけて何になる」と否定的な意見が多くて。反対意見が多いと、自分自身まで否定されている感じがするんですね。本当に毎日毎日泣いていました。だから、すぐに決めたという感じでもないんです。
ーー周りは会社員として働いている人が多いでしょうから、反対する気持ちもわかります。
合田:そのころ、ある映画祭があって、『カメ止め』に出演した人たちと会ったんですけれど、メンバーたちは「いいじゃん!」みたいな感じだったんです。自分の本能に忠実というか、「やりたいことはちゃんとやれ」という人たちなんだなって思いました。そのときだけ、心がちょっと楽になりましたね。
「俳優になりたい」と口に出すのが恥ずかしかった
ーーそのとき、あらためて俳優になろうと思ったということですか?
合田:本当は小さいころからずっとやりたかったんです。心の片隅ではいつも「人前に出る仕事」をしたいって。でも、敷かれたレールに乗っかった人生で、あまり自分の意見を言うタイプでもなくて。
おぼえている限りだと、小学校5年生のときにこっそり映画のオーディションに応募しているんです。親にも黙って。ドラマはたぶん人並み以上に観ていたので、自然な流れで憧れていたんだと思います。 でも、そのことを言えない人間で。大学3年生までずっと心に秘めた状態だったんです。
「俳優になりたい」と言うことが恥ずかしいと思っていたんですね。「俳優に興味がある」と人に思われることすら恥ずかしいというか。
ーー「あの人は自分に自信があるんだな」と思われることがイヤだった、と。
合田:そうだと思います。「できると思ってるの?」って思われるのがイヤでしたね。周りの意見をすごく気にするタイプだったので。人と違うことをしていじめられたらどうしよう、とか。
そんな人間だったんですけど、大学3年のときに留学したんです。このままじゃ人に流されて生きていっちゃうなというのがあって、1年間アイルランドに留学しました。英語を勉強したいというよりも、周りに頼れないような環境に行こうと思って。
アイルランドでは、留学先に着いて3日目くらいに、町で差別的なことを言われて生玉子を投げられました。それが衝撃だったんです。「私って人種差別の対象なんだ」って驚きましたし、そのときに「なにをしてるんだ」って言い返せなかったことも。
その経験が自分を変えたというか、強く生きなきゃと思ったんです。意見をちゃんと言わなきゃいけないし、やりたいことは「やる」と言わなきゃと。
ーーそれでも結局、就職したのはなぜですか。
合田:私の中では、演じるのも文を書くのも、根本的にはあまり変わらないんです。メディアで発信することなので、軸がブレたとは思っていなくて。俳優にはなりませんでしたけど、発信する仕事として新聞社に入ろう、記者になろうと。
ーーその時点では『カメ止め』がヒットするかどうかもわかっていなかった。
合田:『カメ止め』を撮影した時点で新聞社の内定が出ていて、進路は決まっていたんです。でも、あの作品の力が強かったので、小学校からやりたいと思っていたことが実現できました。こんなにたくさんの人に観てもらえるんだって思いました。すると、今度は、俳優と違う仕事に就いていることへの違和感が出てきたんです。
「不安はあるけれど、不安に思うことも大事」
ーー会社を辞めると決めたことについて、周りの反応はどうでしたか?
合田:親とか、本当に仲の良い友だちはあまり反対しませんでした。たぶん私を見て、「何を言っても変わらないだろうな」と思っていたんじゃないでしょうか。「好きなようにやれば」みたいな感じでしたね。親も戸惑ったかもしれないですけど、「ずっとそういうことを思っていたんだな」ってすぐに理解してくれました。
ーー会社を辞めて後悔したことはありますか?
合田:正直、あるんです。「吹っ切れています」と言いたいんですけども、「なんで辞めたんだろう」って思う日もあって。記者という仕事もすごく好きだったので。でも、辞めたからには、それを正解にしなきゃいけないと思っています。今はそれをバネにして生きています。
不安はありますけど、不安に思うことも大事なのかなと。不安がなくなったら、人間、あまり良い方には向かないですもんね。
今日、こうやって取材を受けるのも「私なんかが」と思ったんですけど、まだ何も叶えられていない人間の言葉が、誰かの頑張る力になればと思いまして。「こいつがこんなに無謀な人生を送っているなら、まだ大丈夫だ」って思ってもらいたいですね。私はまだ夢の途中ですし、不安ばかり、後悔ばかりですから。
ーーちなみに、合田さんは「ひとり」の時間をどう過ごしていますか?
合田:休みがあったら、ひとりで行くんですよ。美術館とか映画館とかファッション展とか。なにかを発信するということは、そこにその人の人生が詰まっていると思うんです。そういうものを見て、どんな思いでこれができたんだろうって考えたり、その人について調べてみたり。メモ帳に自分の気持ちをメモしたりとか。
頭の中では、なんというか、もうひとりの自分みたいなものとしゃべっている感じがしています。自分の心の声が脳に充満していて、それとしゃべっている。誰かが発信しているものを見ると、その言葉みたいなものが内側から出てくるんです。
ーーその声は、ご自身に肯定的な声ですか?
合田:肯定されたり、否定されたりですね。たぶんそれが自分の本心なんでしょうけど。たとえば去年、ライターをやっていたときには、「このままでいいの?」というような声がずっと聞こえていたんです。「違うでしょう。東京に来たのは、そういうことではないでしょう」と聞こえてきたので、「違うな」と思いました。
一番に考えているのは、死ぬときに後悔しないようにということです。人間って全員、いつかは死ぬじゃないですか。それを忘れてしまいがちなので、意識して毎日を生きようと思っています。死ぬ直前になって「あれをやっておけばよかった」って思わないように。