みんな死んじゃうからこの世はいっとき輝く…「小平」後編(地味町ひとり散歩 20)

前回に続いて、東京の多摩地域の地味町「小平」を歩きます。今回は散歩といっても、町ではなく、小平霊園という墓地の中を散歩します。

お墓といえば、「死」を連想する人も多いでしょうが、僕が作った歌で「メメントの森」というものがあります。

 みんな死んじゃうからこの世は楽し

 みんな死んじゃうからこの世はいっとき輝く

 みんな死んじゃうからこの世は面白いなあ

 みんな死んじゃうからこの世はある

「メメントの森」の歌詞は、ラテン語のメメント・モリ(死を想え)から思いつきました。

僕が若いとき、死はただただ畏れの存在でしたが、年齢を重ねていくうちに「死は、生を活き活きとするためにあるもの」と思うようになりました。もちろん死が怖いことに変わりはないのですが、「死という誰にでも訪れる終わりがあるから、今が楽しいんだよなあ」という考えになってきました。

お墓の中にその人がいるわけではない

実は僕は、お墓参りに行ったことがほとんどありません。理由の一つとして、物心がついて以来、家族が誰も亡くなっていないということがありますが、もう一つ、さきほどの死生観が影響しています。

秋川雅史さんの「千の風になって」の歌詞じゃないですが、お墓の中にその人がいるとは思えないのです。

たとえば、自分の頭から抜けていった髪の毛や指先から切って捨てられた爪は、もう自分のものではありません。それと同じように、人が亡くなったら、その骨や灰はもはやその人自体ではないと思うのです。

こんな風に考えている僕が、お墓が集まっている霊園を散歩したというわけです。きっかけは「涼を求めて」というものですが、歩いてみると、意外なお墓もありました。

最初に目についたのが、ただ単に「墓」とだけ書かれたお墓。霊園にある立派な石はほぼお墓なので、言われなくてもわかります。もしかしたら、墓という変わった名字の人なのかもしれませんが。

有名人のお墓もありました。作家の有吉佐和子さんや演歌師の添田啞蟬坊さんといった人のお墓です。

石川家の墓もありました。うちのお墓は多磨墓地にあって、ここではないのですが、自分と同じ苗字のお墓を見るとちょっとドキッとしますね。

親しい人と同じ名前のお墓が気になってしまう

昨年、僕の親しい人が次々に亡くなりました。そのせいか、なんとなく、その名前を探している自分がいました。

もちろん、ここにあるのはその友人たちのお墓ではないのですが、同じ名前がお墓に刻まれているのを見ると、思い出がよみがえってくるのです。

まず、気になったのが「山下家」のお墓です。こちらのお墓で思い出したのは、山下由さん。僕が20歳のころに出会ったシンガーソングライターです。

僕らはすぐに意気投合して、人生で初めてバンドというかユニットを組みました。その名も「ころばぬさきのつえ」。

このユニットは、僕と山下さんが固定メンバーとして決まっていて、あとはそのときどきで近くにいるミュージシャンがセッション的に入るという形態でした。

知久寿焼くんや柳原陽一郎くんも入ったことがあります。つまり、山下さんは、僕が「たま」というバンドを組むきっかけになった重要な人物なのです。

ちなみに「ころばぬさきのつえ」は本来、歌のユニットですが、パフォーマンスにも力を入れていて、馬鹿馬鹿しいことをたくさんやりました。

「ステージと客席の間を新聞紙で作った幕でふさいでしまって、顔の部分だけくり抜いて、そこから歌をうたう」

「バリカンにピックアップマイクを取り付け、僕が頭を刈られているその音をリズムにしながら、詩を朗読する」

「シーツカバーの中にメンバーが全員入って演奏。お客さんからは顔が見えず、シーツがモゴモゴと動いてるだけに見える音楽」

などなど。どれもくだらないパフォーマンスですが、楽しかったです。

僕らがメジャーデビューしたころ、あるテレビ番組で「たまに影響を与えたものベスト5」を発表する機会がありました。

第1位「虫」、第2位「山下由」、第3位「つげ義春」、第4位「かまやつひろし」、第5位「ビートルズ」。

第1位の「虫」は知久君の個人的趣味が強く、第3位の「つげ義春」は僕の趣味が強く推し出されているので、実質的に全員の一致した意見というと、1位は「山下由」だったのです。

山下さんは、それまでに知り合ったミュージシャンの中でも圧倒的に詩人としての力がすごくて、メンバー全員が共通して影響されていました。

ちなみに、彼は貝の研究者としても有名で、高校生のときにその研究で天皇陛下に謁見したことがあるほどでした。

僕が山下さんと最後にセッションしたのは、亡くなる8カ月ほど前のこと。自分の死期が分かっていたのか、そのとき初めて、息子も入れてセッションをしました。そのときのなんとも言えない照れた笑顔は、今でも忘れることができません。

ヨーロッパに一緒に行ったチェロ奏者

山下家に続いて目に止まったのが「三木家」のお墓。これを見て頭に浮かんだのは、三木黄太さんのことです。

三木さんは、今も僕がやっているパスカルズというバンドでチェロを担当していました。14人いるバンドメンバーの中で年齢は真ん中ぐらいでしたが、一番信頼のおける「優しい親父」のような存在でした。派手さはないものの、いぶし銀のチェロを弾いてくれました。

パスカルズは海外公演も多く、長い場合は1カ月以上におよぶツアー生活を過ごしました。スタッフも入れると総勢で20人以上にもなるので、大型バスを借り切って、ビートルズのマジカルミステリーツアーよろしく、いろんな国を駆け巡りました。

宿泊先のホテルに着くと、夜ごと「三木バー」という名の飲み会が彼の部屋で催されました。

ヨーロッパのライブは楽屋のケータリングが充実していて、冷蔵庫にビールが敷き詰められ、ワイン、チーズ、ハムなどがたくさん用意されていることも多かったので、それをゴソッと持ち帰り、「三木バー」で口にすることもありました。その中心でいつも、三木さんが笑っていました。

一方で、三木さんは家具職人としての顔も持っていました。

テレビ番組の「家具職人選手権」などにも出場し、決勝に進むほどの腕の持ち主でした。なかでも猫をモチーフにした手作り椅子などは芸能人にもファンが多く、江口洋介さんの家にオーダーものを届けたこともあるそうです。その後、僕がある演劇の舞台で江口さんと共演したとき、「お宅にある猫の椅子、僕がやっているバンドのメンバーが作っているんですよ」と伝えて、驚かれたこともありました。

三木さんと最後に会ったのは、亡くなる3カ月ほど前です。NHKのドラマ「となりのマサラ」のレコーディングのときでした。このときに収録したサウンドトラックの曲はCDも発売されていて、その中に三木さんが作曲した曲も入っています。

亡くなる3日前。コロナの緊急事態宣言のために直接会うことはできませんでしたが、三木さんが発起人となって、パスカルズのZoom飲み会が開かれました。

仕事場が長野県にある三木さんは、鍋をひとりで作って、赤ら顔でお酒を飲んで、いつものように楽しくお喋りをしていました。翌日の朝には「昨日は楽しかったですね。またやりましょう!」というメールも届きました。

その2日後、布団の中で冷たくなっている三木さんが発見されました。突然死で、死因は心臓に起因するもの、とのことでしたが、はっきりした原因は不明ということで、コロナ禍の中、詳しく調べられることもなく荼毘に付されました。

ちなみに、山下さんと三木さんはともに、僕よりひとつ年上です。「もうすぐオレも還暦だなあ」と二人は口にしていましたが、その言葉は現実にならず、59歳で逝ってしまいました。

先日還暦を迎えた僕は、あっという間に二人を追い越してしまいました。

イカ天にも出場したボーカルのオッチャン

そして、3番目もやはりミュージシャンです。「鈴木家」のお墓から想起したのは、鈴木常吉さん。

僕ら「たま」がデビューするきっかけになったイカ天(いかす!バンド天国)。そこに出場した「セメントミキサーズ」というバンドでボーカルをしていたオッチャンと言えば、番組を見ていた世代の人は「あぁ、あの人」と思うかもしれませんね。その後ソロになり、テレビ「深夜食堂」の主題歌の「思ひで」がヒットしたりしました。

実は、常吉さんと知り合ったのは「イカ天」よりも前のこと。彼が古本屋を営んでいるときからの付き合いでした。

最後に会ったのは、亡くなる1年ほど前。ふたりがそれぞれ弾き語りをした後、僕が常吉さんのバックでガラクタパーカッションを叩くというセッションもしました。お酒が本当に好きな人でした。その影響もあったのか、食道癌のために65歳で亡くなってしまいました。

あの映画監督との叶えられなかった約束

最後にもう一人。同じ名前のお墓は見つかりませんでしたが、映画監督の大林宣彦さんです。前述の山下由さんと同じ日に亡くなってしまいました。

大林監督の映画「この空の花ー長岡花火物語」で、僕は山下清役で出演させてもらったのです。また「野のなななのか」では、パスカルズ全員で野原の楽隊として出演させてもらいました。テーマ曲もパスカルズで、作詞は僕が担当しました。

大林監督は末期癌を以前から告知されており、監督に「石川くん、僕が逝くときは君の『オンリーユー』を枕元で歌ってくれ」と何度も言われました。

残念ながらその約束は叶いませんでしたので、ここに歌詞の一節を記しておきます。

 オンリ・ユー 死なないでよ 

 オンリ・ユー 死なないでおくれ

 例え下半身不随になって下の世話も何もかもしなくちゃならなくても 

 生きてておくれ オンリ・ユー 

さて、ぼちぼち墓地ともお別れです。今回は幽霊も乗りそうなこのタクシーで帰ることにしましょうか。

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石川浩司 (いしかわ・こうじ)

1961年東京生まれ。和光大学文学部中退。84年バンド「たま」を結成。パーカッションとボーカルを担当。90年『さよなら人類』でメジャーデビュー。同曲はヒットチャート初登場1位となり、レコード大賞新人賞を受賞し、紅白にも出場した。「たま」は2003年に解散。現在はソロで「出前ライブ」などを行う傍ら、バンド「パスカルズ」などで音楽活動を続ける。旅行記やエッセイなどの著作も多数あり、2019年には『懐かしの空き缶大図鑑』(かもめの本棚)を出版。旧DANROでは、自身の「初めての体験」を書きつづった。

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