「自分の居場所をずっと作りたかった」コロナ禍のニューヨークでベーカリーを開店した安藤あやかさん
アメリカのニューヨーク市ブルックリン区。マンハッタンと比べ、多くの建物の空間に余裕があるためか、ビジネスとカルチャーのバランスをうまく取った、遊び心のある、ここにしかなさそうな独創的な店を目にすることが多い。そんな「ブルックリンらしさ」を住民が一緒に楽しもうとするのも、この地の特徴だろうか。
大阪市よりも少しだけ大きいブルックリン区。その南西部のサンセットパーク地区にあるインダストリーシティーは、かつて海運業の施設だったビル群を改装した商業複合施設で、ブルックリンらしさを色濃く持つ場所。コロナ禍最中の2020年11月、このインダストリーシティーの中に小さなベーカリーがオープンした。安藤あやかさんがひとりで経営する「Tadaima」だ。
「ブルックリンの人たちが居心地の良さを感じ、『帰ってきた』と思える場所を作りたいと思い、Tadaimaという名前を付けました。店を始めてみて、自分自身も自分の居場所をずっと作りたかったんだなと改めて分かりました」
コーヒー一杯も、豆を挽くことから始めて、美味しくなる手順をすべて踏んで丁寧に手入れするので5分ほどの時間がかかる。待てない客も中にはいるというが、常連客は、「美味しくするために手を掛けるのは当たり前」と擁護する。
好きなものを手作りし、好きなもので店を飾り、好きなやり方で提供する。店のインテリア一つ一つを厳選し、物の置き方もとことん吟味する。
食用花で飾られた、花束を思わせるシグネチャーのパウンドケーキや色とりどりの焼き菓子はすべて手作り。コーヒー豆は日本人ロースターが丁寧に手掛けた焙煎したてのものを使う。気に入った日本の工芸品は直接問い合わせて取り寄せ、販売している。至るところにこだわりを感じさせる店だ。
自信を持ってやってきたことができない
ところが意外にも、子供のころから夢中になれるものがないのが悩みだったという。
「飽きっぽかったのだと思います。夢中になれるものがなかったんです。クラスメートがアイドルに夢中になっているときも、口では合わせて『いいね』と言っていましたが、全然熱狂的になれなくて。そうやって何かに夢中になっている友達を見ていて、本当にうらやましいと思っていました」
そんな安藤さんが子供のころから「奇跡的」に続けられたのは、走ること。
出身の鳥取県伯耆町はトライアスロンの開催地として知られている場所だ。そうした大会に出場するのが趣味だった小学校の担任教師から長距離走の才を認められ、地元のほか広島や四国などの大会にも出場することを奨励されたという。
小学、中学、高校と走り続けた。そして一般受験ながら、大阪の体育大学に進学。陸上競技生活は順調に見えた。しかし、「走ること」との戦いがここから始まる。
「陸上競技の世界では、奇跡的なことは起こりません。実力は数字で明確に分かります。大学には全国からトップクラスの競技者が集まっていて、本気で世界を目指している人たちと自分との違いを肌で感じました。変わらない環境から出たくて来たのに、出てみたらカルチャーショックを受けました」
最初は実力不足のために、練習に参加させてもらえなかったという。
「唯一やり続けてきた走ることすらもできない。大学の実技の授業で、最初は『できない』って言っていても、次には簡単にできるようになってしまうような運動神経のいい人たちばかりが周りにいました」
入学して数ヶ月後、環境の変化によるストレスと栄養失調で、気を失って倒れ、入院することに。これが一つの転機になる。
「自分が競技を続けてこられたのは、周囲の人たちに支えられていたからだと分かりました。ここで唯一続けてきた走ることをやめたら何も残らない。それで、やるべきことがむしろ明確になりました。とにかく目の前にあることを続けるしかないと」
練習を続けていくと結果もついてきた。
「やったらやっただけ伸びるという経験もしました。その後、大きなけがをするまでは、自分がどこまで行けるか知りたいと思っていました」
それでも、大学卒業も競技を続ける気持ちはなかったという。
「就活が始まった時期で忙しくなったこともありました。実際には自分の状況を見て、競技を続けても自分の席がないのは分かっていました」
教員免許を取得するために教育実習も経験したが、「自分の人生も分からないのに、何も教えられることはない」と考えて、結局は大学院に進学した。
「大学院ではスポーツマーケティングを専攻しました。そこで市民マラソンの運営の手伝いを経験して、競技者とは別の角度から競技に携わることができるのを知りました」
こだわりを捨てたこと
自分の経験と強みを生かせる場所なのかもしれない。そんな思いを抱いて、大手スポーツ用品企業が運営するランニング専門ストアに就職。スポーツ用品の販売とランニングスクールの補助をすることが仕事になった。
数年間、夢中で働いた。でも、湧き上がる疑問を振り払うことができなかった。
「陸上の競技者として使っていたものを、『どうぞ』と自信を持って売ることはできます。でも、自分のメーカーの靴が合わない人もいるんです。そう思ったら私は売れない。『向かいに別のメーカーの店があるので、そちらを試してみてください』って。靴はあっちで買って、ウエアはこっちで買ってくれればいいかなと」
安藤さんは、そのほうが正直な姿勢だと思っていたのだ。
「販売も競技と同じで数字です。一生懸命やって、自分がこのぐらいというのも分かってしまいました。走ることは変わらず好きでしたが、これ以上成績を上げようと思ったら、自分がやりたいことと違う方向で何かを追求していかないといけないと思いました」
数年勤務したのちに、会社のグループ再編成のタイミングで退職。アメリカに渡った。周囲も驚く転身だった。
「自分の中ではずっと、走ること以外の違うことをやっていいのか? という思いが強くありました。ニューヨークに来る際、周囲には『走るのが盛んな場所だから、何かつながることがある』というような説得もしました」
だが、本心は正反対だった。
「海外に出たいと思ったのは、これまでやってきたことを生かすことを考えずに、誰も自分のことを知らない場所で、環境を変えたかったからです。実際に来てみて、これまでのように、走ることに関連した何かをやろうという気持ちにはならなかった。それが自分で分かったことも、ここへ来て良かったことの一つです」
ゼロから作った自分の居場所
ニューヨークで出会った人たちとの関わりがきっかけで、バリスタ、ベーカリーの道を目指すことになる。本当にたまたまだ。経験がないことをゼロから学んでいった。
「どうやったら自分の手で美味しいものを作れるのか、どうやったら相手が喜ぶのか考えることが本当に楽しかった」
念願の店「Tadaima」をオープンさせたのはコロナ禍の只中であった。
「大変な時期ではありましたが、直接人と会って、店に来てくれる人たちから『こういうときだからこそ、みんなで頑張ろう』と声をかけてもらった。人の本音が見えたと感じました」
この時勢、顧客の顔を見ないで商品を売るビジネスが増えているが、自分にはそういう方法はないと言い切る。
「自分の好きなものに囲まれて、いいと思ったものを作り、それを喜んでくれる人に届ける。店なのか、味なのか、空気なのか、感じ方はそれぞれあると思いますが、好きだなと思ってくれるお客さんにとって、いつも帰ってくる場所、思い出の場所になれたらいいなと思っています。この店を開いてみて、自分がずっと、自分の居場所を作ろうと、もがいてきたんだなと分かりました」