「富士山すべり台」を愛しすぎた男…名古屋発「公園遊具」の不思議な世界
「富士山を撮影するのにもっとも適した季節は、真夏です。太陽の位置が高く、お昼は太陽が真上にくる。撮影すると、画像の発色がとてもきれいなんです」
そう語るのは愛知県津島市に住む牛田吉幸(うしだ よしゆき)さん(48歳)。牛田さんは食品製造業に従事しながら、富士山の撮影をライフワークとしています。
富士は日本一の山。富士山を愛し、四季折々の表情を愛でるカメラ趣味人はたくさんいます。しかし! 牛田さんが撮影しているのは、あの世界に誇る名峰ではありません。彼がレンズを向けているのは、児童公園にそびえたつ、コンクリート製の「富士山すべり台」なのです。
猛暑をものともせず撮影に奔走する、日本でおそらくたったひとりの「富士山すべり台ウオッチャー」。なぜ、そこまで街なかの富士山を愛するのか。その理由を訊ねました。
児童公園の「富士山すべり台」を撮影し続けて18年
――牛田さんが公園遊具である「富士山すべり台」を撮影し始めたのは、おいくつですか?
牛田:30歳です。何の気なしにふと名古屋市内の児童公園に立ち寄ったとき、富士山がそびえているのが、なぜか気になったんです。「これって、どこにでもあるのだろうか?」と。それで、ほかの公園も見てまわると、やはりそこにも富士山がある。しかもどれも微妙に色あいや造形が違っていた。「これは被写体として面白いな」と思い、それ以来18年間、名古屋を中心に、さまざまな街へ富士山を撮りに出かけています。
――すべり台の撮影を18年間も! それはすごいですね。
牛田:私は一度はじめたらやめられないタイプなんです。最初は単なる衝動だったんですけれど、枚数が増えれば増えるほどおもしろくなり、愛着が湧いてきました。
撮影にふさわしいのは猛暑日。理由は「暑すぎて人がいないから」
――撮影にふさわしい日って、あるんですか?
牛田:気温が35度を超える真夏の快晴の日です。理由ですか? 暑すぎて「公園から人がいなくなるから」なんです。遊具なので、なかなか無人状態の写真が撮れない。だから猛暑日はシャッターチャンス。「今日はめちゃめちゃ暑いな。よし、出かけよう!」って、1日20か所くらい、車でまわります。
――今年の東海地方は記録に残る酷暑だったのに……。お身体は大丈夫ですか?
牛田:もう汗だくです。さすがに水分をたくさん摂らないと身体がもちません。なので車に水をたくさん積んで。
実際にすべってみないと富士山の質感はわからない
――富士山すべり台は、やっぱりすべってみるんですか?
牛田:もちろん、すべります。すべり台ですから。すべり心地やコンクリートの質感、傾斜の度合いは身をもって経験しないとわかりません。そのためにも人がいない真夏は観察に最適なんです。もうすぐ50になる男が子どもたちと混ざってすべっていると、やっぱり周囲から怪しまれますので。
富士山すべり台は名古屋が発祥。ひとりの市職員のアイデアから生まれた
――富士山すべり台は、全国どこにでもあるのでしょうか。
牛田:いいえ。名古屋に集中しています。なぜならば、名古屋市役所の、あるひとりの職員さんが図面を書いたからなんです。
――えーっ! 富士山すべり台は名古屋市役所の職員さんがデザインされたのですか。
牛田:そうなんです。名古屋市役所「緑政土木局」の方と知りあう機会があり、それが判明しました。はじまりは昭和40年代。当時は名古屋の人口が急増し、それにともない区画整理事業が行われ、児童公園がたくさん生まれました。そこに設置する遊具のひとつとして、市役所の職員さんが考案したのです。
――すべり台を富士山のかたちにしたのは、子どもたちに「日本一を目指せ」みたいなメッセージがあったのでしょうか。
牛田:う~ん、どうだろう。正式名称は「プレイマウント」といい、図面には特に「富士山のように塗れ」という指定は書かれていませんでした。ただ形状は富士山を意識していたようですね。図面をひいた方はもう退職され、現在はそうとうなご高齢だそうで、「なぜ富士山だったのか」という理由までは、まだわかりません。
――市役所の職員が書いた「プレイマウント」の図面が、いまなお伝承されているということなんですね。
牛田:そうなんです。一枚の図面をもとに、さまざまな造園業者や左官業者があちこちに富士山を造ったのです。名古屋市内で最後に造成されたのが平成11年(1999年)。そして今年の2月、愛知県半田市の雁宿公園に新しい富士山すべり台が誕生しています。
――愛知県内には今年、新山が誕生したのですか。それは嬉しいですね。では、第1号の富士山すべり台は現存してるのですか?
牛田:はい。千種区「吹上公園」に残っています。直径は12メートル。とにかく、かっちりしていて、できがいい。曲線が優美で、上まで登るために埋められた玉石の欠落も見られません。ゆっくり時間をかけてコンクリートを固めたのが、よくわかります。とてもていねいな仕事です。
富士山すべり台の造形から、当時の世相、造られた背景が見える
――富士山すべり台は名古屋市に集中しているそうですが、いま市内には、いくつあるのですか?
牛田:現存しているのは93基です。過去のデータベースと、名古屋市が発行している公園に関する年報と、自分の実地調査を照らし合わせてみて、この数で間違いないはずです。93基すべてをまわり、この目で確認し、必ずすべっています。同じ形のものがふたつとないので、おもしろいですよ。
――93基のなかで、特に印象に残っているものは、ありますか?
牛田:中区大須「裏門前公園」の富士山すべり台は、山肌がピンク色で、かわいいです。実はこのすべり台は日本中央競馬会の寄贈なんです。もともと場外馬券場がすぐ近くにあり、当時の航空写真を見ると、路上駐車がものすごかった。中京競馬場の年史を読むと、裁判もあったようです。なので大須へ謝意を込めて寄贈したのではないかと私は推測します。こんなふうに、すべり台が誕生した背景を世相から読み取れることも、富士山観測のおもしろさですね。
――富士山の向こう側に街の歴史が見えるって、とてもドラマチックですね。
牛田:中村区「中村公園」のものも、いいですよ。大きな公園の片隅にあるんです。これ、左右非対称なんです。昭和40年代の区画整理で周囲に新しい街が誕生し、その勢いについてゆくべく、大急ぎで造られたすべり台だと推測します。新しい街の誕生とともに新しい富士山がそびえ、それを新たにやってきた人たちが眺める。いいでしょう。そういう時代の息吹に想いを馳せてしまいますね。
――新居ができた喜びを胸にしながら富士山を見あげる家族の姿までが想像できますね。ところで「名古屋市に現存しているのが93基」ということは、なくなった富士山もあるのですか。
牛田:名古屋市内には、かつて119基の富士山すべり台がありました。ただ人口増加による駐車スペース確保の問題が生じ、団地内の公園をつぶして駐車場にしたんです。それで減りました。残存率はおよそ80%ですね。
――本当によくご存じですね!
牛田:名古屋市内においては、富士山すべり台が何年に造られ、何年に撤去されたのかも、すべて把握しています。Google Earthができる以前から航空写真で調べているので。
名古屋から離れるにつれ「富士山度」が消えてゆく現象
――間違いなく富士山すべり台ウオッチャーの最高峰ですね。そしてすべり台は、名古屋市以外にもあるんですよね。
牛田:そうなんです。造成の方法をおぼえた建設業者などを通じて図面が転用され、名古屋市から愛知県へ、愛知県から東海地方へと伝播していったようです。そうして範囲が拡がるうちに楕円形になったり連峰になったり、新しい発想やアレンジが加えられ、フォルムはずいぶんと変化しています。なので、名古屋市外や県外も旅をして見つけなきゃならないし、実際にいまそれをしているところです。最近は関西まで出向いています。
誰も富士山すべり台を調べようとしなかった。だから自分がやるしかない
――しかしなぜ、そこまで富士山すべり台を愛せるのでしょう。
牛田:う~ん。「調べることが可能」で、かつ、まだ「誰も調べていない」からかな。こんなに大きくて目立つものが名古屋に93基もあるのに、しかも名古屋が発祥なのに、富士山が生活に溶けこみすぎて、これまで誰も調べようとする人がいなかった。当時の関係者がまだご存命なので、お話をうかがうのならば、いましかない。そういう切迫した状況なので、毎日少しずつでも絶やすことなく調査を続けています。
――そうなってくるともう、富士山すべり台のみならず、遊具全般を見渡さないと、全貌はつかめないかもしれませんね。
牛田:そうなんです。富士山すべり台からはじまり、戦後の公園遊具の歴史を、日本全体の規模でもっともっと研究してゆきたいです。市役所の人は市内のことしかわからない。メーカーは自社のことしかわからない。ならば自分のようにひとりで動ける人間があちこちへ出向き、実際に現場を訪れて調べないと、実態が見えてこないと思うんです。なので仕事以外の生活の時間は、ほぼすべてを公園研究に充てています。
<富士山は、ひとりの男を魅了し、活火山のように熱くさせたようです。富士山すべり台をきっかけに登頂をはじめた「公園遊具研究」という名の人生山脈。「ひとりだからこそ、それがやれる」。牛田さんはそう言います。牛田さんの研究は、いま何合目まで進んでいるのでしょう。雲を突き抜け、いつか頂上に立つ日が来ることを、ふもとから応援したいです>