編み物のために「手を動かす」ことで無心になる…「編み物瞑想」の意外な魅力
無性に手を動かしたいときがある。手持ち無沙汰ともちがう。頭を使わずにただ一心不乱に手先を動かしたい欲求に駆り立てられるときがある。気になることがあるのに手につかない、そういうときほど細かい手作業がしたくなる。
編み物は誰でもすぐに始められる
これまで手芸にはまったく縁がない人生を送ってきたが、最近、編み物が気になりだした。私にはハードルが高いと思っていたのだが、そこは現代である。動画サイトにいくらでも手本が転がっている。
そのうえ、昔はそれなりにコストのかかった編み物も、今なら100均で毛糸と編み針、初期費用216円ですむ。手軽に試すことができるのでいい。続けたいなら毛糸を買い足すことも自由だ。
古来、同じことを繰り返すことで無心になる瞑想法があみだされてきた。「あ」の音を声に出して無心になるまで繰り返す「阿息観」や、立ったその場で45分間回転しながら無心を作り出すスーフィーの「ワーリング瞑想」がそうだ。
昔から無心を作ることに、さまざまな努力がされてきた。ところが、編み物と瞑想の関係は語られてこなかった。あまりに身近すぎて盲点だったのだ。
雑念から離れて、手仕事で無心の世界へ
編み物はちょっと面倒なところがまたいい。日常の雑念から離れて、嫌でも手元に集中せざるをえないからだ。編み物は仕事とまったく関係ないところに意味がある。男性もハマる瞑想法だ。
注意すべき点がある。セーターやマフラーという大きな目標はいきなり立てないほうがいい。目的は手を動かして無心になることなので、結果をあまり気にする必要はない。とにかく手が動くままに編んでいく。手を動かしているうちに、他のことが考えられなくなっていく。編み物するだけで無心になれるのだ。
しかし、心が乱れて無心が途切れると、目がとんで穴になってしまう。まさに心の穴だ。それでも、穴を気にせずにそのまま編み続けるのだ。
無心になることが重要なので、穴に反応してはいけない。細かいことは気にせずにどんどん編んでいく。穴にはあとで大きなボタンをつけてもいいし、缶バッチをつければどうにかなる。現在のファッションは多様なので、部分的に縄編みになっても大した問題ではない。
無心でいながら何かが形作られていくさまは非常にいい。無心になって手を動かしてみれば、それまで気になっていたことが些細なことに感じてくる。無から形作られていく編み物のほうがずっと意味があるように思えてくる。心が無心なら網目が揃う。目に見えて無心が形になるのだ。
毛糸で何を作ろうと自由なのだ。心の穴の証拠は、編み物として記録されるが、それはそれ。おしゃれとして楽しめばいい。無心で編んで適当にできた編み物の塊は、そのままとじあわせてスヌードにするのがいい。そうでなかったら腹巻きだ。それも無理なら座布団に。
「編み物をするより買った方が安い」と言う人がいるが、編み物は瞑想のためにやるのだ。成果はあくまで副産物。何かを作ろうとして編み物を始めてしまうと、気がそれて瞑想状態にはならない。「瞑想とは何か」ということを考えずに、ただただ手を動かすことが一番なのだ。無心になる、それが瞑想なのである。