「子供部屋おじさん」は問題視されるべき存在なのか? 統計データから読み解く
新年を迎え、1月も半ばになるが、皆様いかがお過ごしだろうか。
新年のおめでたい気分もつかの間、正月のツイッターを飾ったのは「子供部屋おじさん」の話題だった。
とあるメディアで紹介された子供部屋おじさんへのインタビュー記事が、あまりに現実離れした価値観を有するおじさんだったことから、「これは酷い」と盛り上がったようである。
子供部屋おじさんとはどんな人?
「子供部屋おじさん」とは、大人になってもひとり暮らしや結婚などをして独立せず、子供の頃と同じように実家に暮らし続ける中年男性を指す言葉である。
一瞬「ニートの中年版?」と勘違いするかもしれないが、子供部屋おじさんは決して働いていない人のみを指す言葉ではない。それよりはかつて流行った「パラサイトシングル」という考え方に近い存在だろう。
「パラサイトシングル」とは、社会人になっても衣食住などの基本的な生活を親に依存している未婚者を指す言葉である。
この言葉は、かつては「家事手伝い」と呼ばれ、ごく当たり前の存在であった実家暮らしの独身女性が、景気の悪化や価値観の変化から、さも「実家に寄生する、社会にとって不利益な存在」とみなされるようになったことから生み出された言葉である。
ただし、パラサイトシングルもニートと同じように、「働いていなかったり、フリーターだったりで、自分の稼ぎだけでは生活が成り立たない独身者が、親元に暮らし続けている」というニュアンスがある。
それと比べると、子供部屋おじさんという言葉には収入の多少に関係なく、実家の子供部屋で生活し続ける単身者、つまり理由を問わず独り暮らしや同棲などをしていない未婚の中年男性を指す言葉となっている。
ニートやパラサイトシングルという言葉が、不況や社会構造による意識の変化から生まれた客観的な意味を含む言葉であることに対して、子供部屋おじさんという言葉は単純に「個人に自立心が無い」とか「いい年をしてみっともない」と指摘するときに使われがちな言葉である。
そしてその「子供部屋おじさん」という言葉ヅラを見るに明らかだと思うが、自立心の無いことを「悪、ナマケモノ、無責任」と批判する要素が含まれている言葉であり、良い意味や中立的な視座では使われることはほどんどない言葉であると言える。
子供部屋おじさんはありふれている
では本当に子供部屋おじさんは社会的に問題のある存在なのだろうか? そもそも、子供部屋おじさんは、どの程度の割合でいるのだろうか?
2015年に国立社会保障・人口問題研究所が実施した「第15回出生動向基本調査」によれば、未婚者のうち親と同居する男性の割合は72%である。正社員の未婚者でも65%近い男性が親と同居している。この傾向は近年大きく変わっていない。このため、未婚のうちは親と同居するのが普通であると言えるだろう。
この調査は18〜34歳と、おじさんというには少し若い年齢を対象とした調査ではあるが、35歳以上の未婚者であっても、親と同居する人の割合は大きくは変わらないだろう。なぜならば、結婚という大きな環境の変化がないのに、独り暮らしを始めるとは考えづらいからだ。晩婚化が進んでいるとはいえ、同所の「人口統計資料集(2019)」によれば、やはり結婚のボリュームゾーンは20~30代。30代を子供部屋で過ごして結婚できなかった人が、それ以降も子供部屋で暮らし続けることは、想像に難くない。
結局、子供部屋おじさんとは「普通の未婚中年のありふれた生活様式」に過ぎない。ゆえに取り立てて問題視されるべき存在ではないと言えるのである。
子供部屋おじさんは悪い存在なのか?
では、なぜ子供部屋おじさんが問題のある存在であるかのように言われてしまうのか。
まずは1つに「子供部屋おじさんが目立つようになった」ことが挙げられる。総務省の「親と同居の未婚者の最近の状況(2016年)」によると、親と同居している壮年未婚者(35~44歳)の同年代の人口に対する割合は、1980年で2.2%、2000年で10.0%、そして2016年では16.3%と大きく増えている。
かつては結婚する人が多くその影に隠れていたが、未婚の人が増えたことで、同世代の人口に対する子供部屋おじさんの割合も増えた。その結果、その存在が現代社会の闇のように、見えてしまうようになったのである。
そしてもう1つが、「子供部屋おじさんを悪い存在ということにしたい」。そんな人たちがいるからである。
現在の日本には景気の停滞や少子化といった問題が山積みであり、結婚に踏み切ることができる人も減り、未婚率は上昇し続けている。
当然そうした社会不安の蔓延の責任は日本政府にあるのだが、最近はこうした社会問題を社会の責任として考えるより、個人の自己責任であるかのように主張して、問題を単純化する言論の方がウケるという現実がある。
そうした読者の需要を満たすために、単に親と同居しているだけの中年男性を取材し「これが社会を悪くしている子供部屋おじさんの実態だ!」として、売れる記事に仕上げるジャーナリストが出てくるのである。
もちろん、そうしたジャーナリストにとっては、子供部屋おじさんが笑いものになるような考え方や生活態度があればあるほどいいのだから、いかにもダメそうな人間が取材対象として選ばれる。また書くときには細かな欠点をあぶり出し、読者が「そんなダメ人間だから結婚もできず親元から離れられないのだ」と悪印象を抱くように書くのである。
というわけで、新年早々に出された、夢見がちで恥ずかしい子供部屋おじさんの記事は多くの人の目に触れ、結婚していない中年を批判したい人たちや、未婚の男性を見下したいイデオロギーの人たちの溜飲を下げたのである。さぞ、たくさんのページビューを得たであろう。
ただし、僕の見ているツイッターのタイムラインなどでは「書き手が、最初から子供部屋おじさんを見下した態度に出ている」などという良心的な批判もあり、けっしてわざわざダメそうな人間を見つけ出して槍玉に挙げるようなやり方を素直に受け入れたり、支持する人ばかりではないということは、記しておきたい。
統計データに基づく偏見のない記事を
こうした、弱い立場の人たちを取材した記事の中には、取材した個人の訴えをしっかりと伝え、社会が普段、無視しているような存在に光を当て、問題を提起する良質な記事も多いが、その一方で取材相手を自分のネタの種くらいにしか思っていない敬意を欠く記事も、まれに見かけることがある。
特にルポルタージュやインタビューと言った、個人的な経験を見せる手法が用いられる場合は、取材現場で偶然目にした偶然な例を、さも一般的な例であるかのように見せてしまう可能性がある。
書き手からすれば、個人の例を示すのであれば、個人に基づく印象論だけではなく、統計などの客観的データを提示し、それが個人だけの問題ではなく、社会的な問題であるという事実を明確に示す必要がある。
読者として見る場合は、統計データを示していない記事の場合は、例えそのルポルタージュの内容が真実であったとしても、それを一事が万事とばかりに鵜呑みにしてクラスターの傾向を決めつけるのではなく、ルポルタージュやインタビュー記事が示すのはあくまでも1つの事例として認識することが重要である。
そうでなければ、その記事は弱い立場の人たちに対する偏見をばらまくだけの悪質な記事へと変貌してしまい、彼らをより傷つけることにもつながりかねない。
記事を書くものとしては他山の石としたい。