雇われ店長から全国9店舗展開するエステサロンの経営者に 成功の秘訣は

Somedayのオーナーの池田由貴子さん。25年間エステ一筋の人生だ(撮影:萩原美寛)
Somedayのオーナーの池田由貴子さん。25年間エステ一筋の人生だ(撮影:萩原美寛)

都内を中心に全国9店舗のエステサロンを展開する株式会社Someday。「東京『神エステ』100選」(幻冬舎)に掲載されるなど、技術とサービスで高く評価されています。同社を立ち上げたのは、池田由貴子さん(44歳)。総勢60名のスタッフを抱えるまでに成長させました。しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。池田さんの軌跡を追います。

親の反対を押し切ってエステティシャンに

千葉県君津市出身の池田さんは高校卒業後、美容学校に進学したいと考えていましたが、経済的な理由で断念。地元の会社に就職して、普通のOLとして生活していました。しかし、美容関係の仕事に従事したいという気持ちが日増しに高まります。

「経済的理由で美容学校に進学することを断念したのですが、働きながらスキルを身につけられるエステ業界で働きたいと家族に申し出ました。ところが父が大反対。『やるなら出ていけ』という厳しい言葉を受けました」

それでも諦めきれない池田さんは、19歳のときにエステ業界に飛び込みました。就職したのは、大手エステサロン。しかし、当時のエステ業界は長時間労働が当たり前。9時から22時まで勤務すると、場所を移動して23時から夜中の2時まで研修を受けるという激務でした。

「研修が終了すると、その場で座って眠り、始発で自分の部屋に戻ってから出社するという生活でした。入社当時は40人だった新人も、1カ月後には私1人になっていました」

優秀な人のマネをすることが大事

優秀な店長を手本にしたことが成功へと繋がる(撮影:萩原美寛)

親の反対を押し切ってエステ業界に飛び込んだため、「やるしかない」と歯を食いしばって頑張り続けた池田さん。最初に配属された千葉店の優秀な店長をお手本にしたことで、あっという間に1カ月で数十万円を売り上げるまでになりました。これが大きな転機となりました。

「入社から1年で店長になりました。20歳の時です。ところが店長として配属された錦糸町店は、全105店舗中104位。ビリから2番目の店舗に店長として就任した初日、私はお客様のクレーム対応をしました」

しかし、池田さんはこうした状況にもめげません。業績を立て直そうと、スタッフひとりひとりと面談するなど、スタッフ教育に力を入れました。

「スタッフは全員年上でベテランでした。でも気にならなかったですね。若かったから必死だったのだと思います」

お客さんもスタッフも全員女性という「女の世界」で、池田さんが実践し続けたのは、初めて配属された千葉店の店長のやり方でした。

「徹底的に優秀な人のマネをすることが大事だと思いました。千葉店の店長から学んだことが生かされて、お客さんに喜ばれ、売り上げにも繋がりました。就任から数カ月で、上位10店舗に入り、嬉しかったですね」

池田さんが店長として力を入れたのが、新規のカウンセリングをスタッフに教え込んだこと。そして「飲みニケーション」でした。

「営業が終わると、スタッフをご飯に誘いました。ご馳走することが多かったですね、私の給料のほとんどをスタッフと飲んで語り合うことに費やしました」

ケガで退職、その後ノイローゼに

過労で腕を痛めてしまい、現場を去ることになる(撮影:萩原美寛)

その後、錦糸町店の業績は順調に伸び、店舗の規模を拡大するのにともなって移転することに。池田さんが21歳の時でした。

「ところが売り上げ目標を1.5倍にアップされると、さすがにキツくなりました。休みなく働いていたせいか、腕が痛くてじん帯損傷と診断され、3回も手術しました。ギプスをはめながら施術していました」

その後、津田沼、浦安、木更津と他の店舗の店長に就任しますが、腕の痛みで仕事の継続が難しくなり、23歳の時に退職しました。

仕事を辞めた池田さんは、地元に帰って結婚し、子供を出産します。ところが、夫が勤め先で重要なポストに就き、ほとんど家に帰らない生活に。ひとりで育児をしなければならない環境になり、育児ノイローゼになりました。体重が39キロと”激ヤセ”してしまいました。

子供が誇れるような人になりたい

仕事に復帰することで育児ノイローゼを克服した(撮影:萩原美寛)

「育児ノイローゼを克服したかったこともあり、仕事復帰したいと思っていた頃、実家の父が亡くなったんです。そこで実家の納戸でエステをしようと思いつきました。設備は簡素。姉にパソコンで簡単なチラシを作ってもらい、ポスティングと紹介だけで、1年後には1日8~10人のお客さんが来てくれるようになりました」

雇われではなく、一国一城の主として、やりたいようにできる喜びを感じた池田さん。その頃、下着の代理店も兼業することになり、君津駅近くのテナントに入ってサロンをオープンすることになりました。仕事は順調に進んでいましたが、私生活では大きな転機が訪れます。

夫婦での話し合いを重ね、夫と離婚することになりました。多忙な夫だったため、母子家庭のような状況だった池田さんは、子供を連れて家を出ましたが、夫の強い要望で親権を譲ることになったそうです。28歳でした。

「離婚後は子供のことばかり考えて辛かったです。孤独を紛らわすために仕事に邁進しました。子供が誇れるようになりたいと思っていました」

東京に進出してビジネスも成長した(撮影:萩原美寛)

夫と子供と別々に生活するようになった池田さんは、仕事に没頭します。2011年には、「最も多くのお客様をビューティーサイズにした功績」が認められ「マイスター・オブ・ザ・イヤー」を受賞。翌年には東京に進出し、銀座に店をオープンしました。

「姉が1店目の店長に就任し、母もスタッフになるなど、父の代わりに一家の大黒柱としての役割も果たしていました」

都内初の店舗をオープンさせたのを手始めに、恵比寿、白金と数カ所にエステサロンを展開、次々に成功に導きました。成功の秘訣は、オープン前にそのエリアの他店舗に客として出向くなど徹底したリサーチを行い、技術やサービスに自信を持ってオープンできたからということです。

こうして紆余曲折を経て、 エステサロンの経営者として成功を収めた池田さん。3年前からは経営に専念しています。「やっと自分の時間ができた」という池田さんは今、ゴルフなどの趣味を楽しんでいます。

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