女殺陣師、NYで指導 香純恭さん、ひとりで普及活動「平和への第一歩に」

ニューヨークで殺陣師として生きる、殺陣波濤(はとう)流NY代表・香純恭さん
ニューヨークで殺陣師として生きる、殺陣波濤(はとう)流NY代表・香純恭さん

ニューヨークで殺陣師として活動する香純恭(かすみ・きょう)さんは、道場での指導から、国連などの国際機関や教育機関での演武披露や講演、さらにプロデューサーとして映画制作、アクション指導も手掛けています。海外での初プロデュース作品、短編映画「First Samurai in New York」は、世界の12の映画祭で上映され、四つの最優秀賞を受賞しました。アメリカで「Tate」を広めるために今日も刀を振り続けています。

少年の熱意ではじめの一歩

――殺陣を教え始めたきっかけを教えて下さい。

香純:道場で教え始めたのは2014年からです。現在はマンハッタンで2週間に1度、ニューヨーク市の郊外のウェストチェスター郡の自宅の地下に作った道場では、ほぼ毎日クラスを開催しています。

道場を開く前、ボランティアで少し教えていた時に、うわさを聞いた、マーシャルアーツを習っている当時13歳の男の子が「教えてほしい」とお父さんと一緒に尋ねてきました。玄関先で少しだけ教えましたが、その日のうちにお父さんから「息子が衝撃を受けている。ライクではなくラブ。ぜひ習わせたい」と連絡が来ました。

元々教えたい気持ちはありましたが、前例がなく、得意じゃない英語で、どう教えればいいのか分からない。子育てとの両立も不安で、怖くて一歩踏み出せていませんでした。でも、熱意を持って、やりたいという子がいるのに、ここでやらなかったら人生最大の失敗になると思いました。

選ぶ単語一つで彼の動きが変わるので、毎回手探りでしたが、栄養がどんどんたまっていく感じで楽しかった。最初の1年はそんな感じで突っ走りました。

「なんだこいつ」にもひるまない

――現在は生徒も増え、認知度も上がりました。飛躍のきっかけはあったのですか?

香純:17年、3周年の演武会をマンハッタンでやったことが大きかったです。それまで口コミで広がっていましたが、一般の方にもっと知ってもらうために、誰もが知る場所で見てもらおうと思いました。それでジャパン・ソサエティー(1907年創立の非営利団体)に飛び込みで交渉に行き、場所を1日空けてもらいました。

人集めの算段どころか、マンハッタンの知り合いもゼロ。大きな劇場なので、逆に決まったあと「どうしよう」と。さまざまな企業やスタジオを訪ねて、何か会合があれば出席し「来て下さい」「協賛して下さい」と言って回りました。

殺陣は相手を知り、呼吸、タイミングや間合い、全てを相手に合わせることで成り立つ技芸です。出身国も文化も宗教も肌の色も違う人たちが集まるニューヨークで殺陣をすることは、平和への第一歩だと考えています。

企業の文化担当の方たちと会って、英語でその思いの丈を伝えても、「なんだこいつ」という目で見られて「15分あげるから、はいスタート」という感じの扱いでした。ひるむ気持ちをねじ伏せて、実際の殺陣や殺陣の映像を見せたりしました。苦しかったけど、何とか客席を埋めました。この演武会のあと、取材や演武、歴史の講義などの依頼が増えました。

必殺技を編み出す

――それでも、まだ雑音が続いたとも聞きました。

香純:「噓の刀だろ」とか「侍は男性なのに女性が表現するのはおかしい」とか。さらにアジア人の女性がひとりで、こういうことをやろうとすると「ガラスの天井」(見えにくいが確実に社会に存在する、女性に対する偏見や障壁)っていうものが、やっぱりあるんだなと感じました。

でも、同時に「そういう考えもあるのか」と、単純に感心した部分もあります。誰もやっていないから、そう思われるのだと分かって、逆にチャンスなのでは、とも考えました。当時、大人クラスの生徒は女性しかいなかったので、誰もやってない女性だけの殺陣演武をやろうと。それを宣伝文句にしたら、すごく反響がありました。

映画撮影でも、アクション制作部の人は屈強な男性ばかり。それをアジア人の女性がやるわけです。最初は「子役のお母さん」くらいに見られて、言うことを聞いてくれません。男性の役者たちは決まって「俺の方が強い」と言い出します。その十倍ぐらいの気持ちで、やってみせて納得させるしかないんです。

道場を構える時、師匠の高瀬(将嗣)に「弟子を持つようになるなら、ギブ・アンド・ギブでいけ。テイクは求めるな」と言われました。今はその意味がよく分かります。

信頼関係は、ギブし続けて、少しずつ理解を重ねていくことで生まれます。こちらに来てからしてきた、様々な経験を経て編み出した最強の必殺技は「敵を仲間にする」というもの。一度懐に入り仲間になると、実は最強の理解者になってくれたりします。

私には「これ」しかない

――殺陣を学び始めたきっかけは?

香純:子供の頃、アメリカのテレビドラマ「チャーリーズ・エンジェル」で、きれいな女性たちがアクションをする姿を見て衝撃を受けました。さらに、映画「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」で、アジア系の子役、キー・ホイ・クァンが活躍する姿を見て、親近感と感動を覚え、自分もやりたいと思いました。

中学生の時、ジャパンアクションクラブ(現・ジャパンアクションエンタープライズ)のオーディションに受かったのですが、父親から反対されてしまって。

その後は、体育の先生になりたいと思ったりもしましたが、ホリプロのオーディションに受かって、タレント部に配属されました。レギュラーで仕事ももらえるし、ちやほやされて、いいんだけど、アクションや俳優をやりたかったので、心の中に空虚感が広がるばかりで。

その時に俳優の友人から紹介されたのが、高瀬将嗣が主宰する、日本初の殺陣流派の高瀬道場でした。

初めて見学に行って「これだ」と思って、それからずっとです。1年通い詰め、弟子入りした後は、稽古以外にも徹底的な発声練習や演技指導を受けました。現場では映画監督でもある高瀬に付いて、カット割りや演出、カメラポジションなど、アクション制作に必要な多くのことを学びました。

結婚して、子供を産んでは休み、復帰を繰り返しました。やがて師範になり、3人目を産んだ後に支部を持たせてもらって「さあこれから」という時に、旦那に「アメリカに行きたい」と言われました。

最初の半年は、本当にきつかった。私にとって殺陣は職業ではなく、人生そのもの。切り離されるのは、想像していた何倍もショックでした。ただ、子供の学校行事に出てアメリカ人の知り合いが増えたり、ご近所の人たちの優しさに接したりして、アメリカの良さを知るようになりました。2年後に日本に帰国して、2013年に再び戻って今に至ります。

私は「あれもこれもできる」じゃなく、これ(殺陣)一本。「誰もやってないからできない」ではなくて「だからこそやるチャンス」と思えたのも殺陣を通して。私は師匠から殺陣を通して、人生に大切なたくさんのことを学びました。今度は私がそれを生徒たちにする番。今私を支えているのは、間違いなく生徒たちです。

単なる刀を使ったアクションと殺陣は大きく違います。それを海外の映画制作で広めたい。いつか「カンフーアクション」ならぬ「殺陣アクション」という言葉ができるようになる日を目標に、今日もせっせと生徒たちと一緒に刀を振っています。

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