小説の神様が愛した「我孫子」の家には「顔だけの化け物」が住んでいた(地味町ひとり散歩 16)

前回のひとり散歩は茨城県の竜ヶ崎でしたが、その日、僕は同じ県内にある両親の家に泊まりました。92歳の親父と86歳のおふくろ。まさに後期高齢者ですが、未だにふたりで元気に生活しています。

もともとふたりは遠い親戚で、「あそこの息子とあそこの娘が行き遅れそうだからくっつけちゃおうか」ということで、あまり者同士の見合い結婚だったようです。

それでも、いまもふたりで楽しく暮らしていて、そもそもそこがくっかなければ僕はこの世に誕生していなかったのですから、本当にちょっとしたことで世界は変わっていくのだなあと思います。あまり者同士の親ですが、ありがてーことです。

92歳の父と86歳の母が暮らす家

親父はもともと理系の人間で、個人でミツバチの研究などをしながら、仕事として蚕(カイコ)の研究をする国家公務員でした。蚕糸試験場の場長だったときもあるのですが、化学繊維に押されて蚕糸業が衰退していくなかで、国の指示にしたがって相当数の部下たちを別の部署(要するにまったく別の仕事)に動かさないといけないこともあったそうです。

そんなストレスのかかる任務のために10円ハゲができてしまったり、インドやインドネシアといった当時の発展途上国に養蚕業の指導にいったりと、大変だったこともあるようです。

定年を迎えたあと現在の家を建て、近所に畑を借りて、野菜を育てる楽しみを覚えました。90歳近くになるとさすがに畑仕事は難しくなりましたが、いまも週一回は太極拳などに通ってるようです。

一方、おふくろは、家族が夫と息子3人という構成で、あまり喋らない男家庭だったので、そのなかで会話を弾ませる名人でした。いまも直接会っても電話で話しても、トーキングマシーンのようにお喋りが止まりません。母の口を塞いだら、全身の毛穴という毛穴から言葉が汗のように飛び出そうです。

ちなみに、学生時代は美智子上皇后とずっとクラスメイトだったそうで、いろんな話も聞きましたが、さすがにここでは気軽には書けませんね(笑)

雨がしょぼ降る町をトボトボ歩く

さて、実家に泊まった翌日、千葉県の「我孫子」を散歩しました。この町を知らない人には難読地名かもしれません。

普通に読んだら「がそんし」とか「われまごこ」とかになっちゃいますよね。これは「あびこ」と読みます。

この日はあいにくの雨。駅前のスーパーで慌てて折り畳み傘を買いました。

電線工事の車両のカゴにも傘がつけられていました。さすがに傘を持ちながらでは作業できませんものね。もっとも高所作業だと横殴りの雨になったらほとんど意味がないような気もしますが、どうなんでしょう。

我孫子駅の駅前は最近の地方都市にありがちな、全国どこにでもあるチェーン店が多く、正直あまり見るべきところがありません。雨がしょぼ降る中、トボトボと歩いていくと住宅街になりましたが、なんだか団地もちょっと寂しそうです。

しばらく歩くと手賀沼という沼に出ました。釣舟のりばがありましたが、誰も人がいません。

アヒル(?)が退屈そうにしていました(あとで調べたら「コブハクチョウ」という鳥のようでした)

この沼はどうやら、うなぎが名物らしいですね。うなきちさんというキャラクターの自動販売機がありました。

「災害対応自動販売機」なのかあと思いましたが、よく見ると「災害対応 動販売機」と書いてあります。つまりこの販売機自体が、災害が起きると動き始めて人々の救助に向かうのかもしれませんね。

災害にあった人もこの販売機がガタゴトと音を立ててやってきたら、ありがたいながらも若干躊躇してしまうかもしれないですね。

天候のせいで、誰も歩いていない脇道を行きます。と、突然、青い人がいる!

と思ったら、ただのネットでした。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とは、こういうことを言うのでしょうね。

さらに歩くと「小説の神様」と呼ばれる志賀直哉の住居跡がありました。

しかしなんだか様子が変です。

八畳。

二畳・押入。

台所。

なんということでしょう。志賀直哉は、こんな化け物の顔が床から生えている家に住んでいたのでしょうか。そして、建物が取り壊された後も、この顔たちは床から抜けずに生え続けているのでしょうか。

これからこの顔がどんどん競り上がってきて、やがて全身が現れると、ノッシノッシと歩き出すのでしょうか。

夜中になると「こんばんは。いますかね」と誰かの家にやってくるのでしょうか。どうか我が家にだけはやってきてほしくないものです。

志賀直哉と言えば白樺派。近くのスーパーではこんなレトルトカレーも見つけました。女子大生も協力しているようです。もし有名にならなければ、小説を書いてるだけの、おそらく引きこもり的な老人(予想)には誰も協力しなかったでしょうから、良かったですね。

子供のころ僕は病弱だったので、本だけが友達でした。ひねくれた性格のため、いわゆる「名作」といわれる作品はあえて外していたので、志賀直哉はあまり読んだことがありませんが、とにかく活字中毒でした。

30代はバンド活動が忙しく、しばらく書物から離れていたのですが、40歳になったとき「初心に帰ろう」と、また読書を始めました。僕は一度決めるとしつこい性格なので、それからの5年間は「一日一冊読書行」を行いました。5年間ですから「365×5」で1825冊読破しました。

しかしこの世の中には、おそらく何百万冊、何千万冊という書物があります。そんな中、5年間毎日、本を読んだとしても2000冊にすら届かないのです。無限ともいうべき書物の世界は、地平線まで広がる大地のようなものですね。

少し歩くと、今度は「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎の別荘跡地がありました。他にも武者小路実篤の邸宅跡などがあります。かつて手賀沼のほとりは文壇や教育者の保養の地だったのでしょうね。

僕も小学生のころは柔道を習っていました。僕が日本武道館のステージに初めて立ったのは「イカ天大賞」か「レコード大賞」の舞台なんだろうと思っている方も多いかもしれません。

でも実は、僕の武道館デビューは小学5年生のとき。僕が通っていた柔道の道場が群馬県代表として全国柔道大会に出場し、そのエキシビジョンで「小学生による模範練習」としてステージに立ったのです。ありがとう、治五郎先生!

さて、散歩も終わり、我孫子駅に戻ったところで大事なことに気づきました。「そういえば、今日は何も食べていないな」と。途端にお腹もグーと鳴りました。

と、駅のホームに立ち食い蕎麦屋さんがあるではありませんか。

実は僕は、大の立ち食い蕎麦好きなのです。今でもひとりで外食するときは8割が立ち食い蕎麦屋というぐらい、大好物なのです。

しかし、今回はなんだか不思議な感覚がよみがえってきました。ただの立ち食い蕎麦好きというだけでなく、もっと郷愁に近いなにか・・・

おかしいです。この駅に降り立ったのは初めてのはずなのに何故でしょう。蕎麦屋に近づいたときに「あっ!」と声を出しそうになりました。

ボ、ボクハ、カツテココデ、ハタライテイタノダッタ・・・。

あっ、違う、僕じゃない。僕に似て非なる人だった!

名物「唐揚げ蕎麦」をおいしくいただいて、帰路につきました。

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石川浩司 (いしかわ・こうじ)

1961年東京生まれ。和光大学文学部中退。84年バンド「たま」を結成。パーカッションとボーカルを担当。90年『さよなら人類』でメジャーデビュー。同曲はヒットチャート初登場1位となり、レコード大賞新人賞を受賞し、紅白にも出場した。「たま」は2003年に解散。現在はソロで「出前ライブ」などを行う傍ら、バンド「パスカルズ」などで音楽活動を続ける。旅行記やエッセイなどの著作も多数あり、2019年には『懐かしの空き缶大図鑑』(かもめの本棚)を出版。旧DANROでは、自身の「初めての体験」を書きつづった。

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