ひとり時間に「手紙」を書くと、ゆったりした時間が戻ってくる
何気なく再開した手紙のやりとり
ある日突然、中学時代からの友人から手紙が届いた。一体何事かと思ったが、何のことはない。万年筆が使いたいから手紙を書いてみたということで、書かれている内容も他愛のないものだった。
せっかくもらったし、自分も万年筆を使うのが好きなので、とりとめのないことを書いて返信した。それ以来、ゆるやかな手紙のやりとりが続いている。もちろんLINEでもつながってはいるのだが、あえて手紙という古めかしい方法で情報交換するのも、これはこれでよいものだと再認識した。
そういうわけで、最近は普段から便箋と封筒を持ち歩き、ちょっとした時間ができたときに手紙をしたためている。移動時間の合間、喫茶店に入ったときに書くことが多いので、わりといろんな場所で書いている。
もともと彼とは、かつて頻繁に手紙のやりとりをしていたことがあった。私は大学受験に落ち、1年間浪人したのだが、私の生まれ故郷には予備校が全くなかったため、東京にある予備校の寮に入ることにした。
当時はまだ携帯電話は普及しておらず、電話をするには寮の食堂にある公衆電話を使うしかなかった。ほかにも使いたい人がいるので長電話はできないし、食堂という場所なのであまり秘密の話はしづらい。そこで必然的に生まれたのが手紙のやりとりだった。
その1年間は、まるで監獄に閉じ込められた囚人のごとく、独房のような寮の部屋でせっせと手紙を書いていたものだ。まだ携帯もパソコンもない自分にとっては、ほぼ唯一の自己表現メディアが手紙であった。
手紙がもたらすゆるやかな時間の流れ
それからまもなく電子メールが普及し、LINEなどのメッセンジャーアプリも浸透したので、めっきり手紙を書くことがなくなってしまったが、オンラインとは違うアナログの良さが手紙にはある。
その1つは時間のゆるやかさだ。手紙を書いて、投函し、相手に届くまで数日はかかる。急ぎの用事ならメールやLINEをすればいいので、必然的に手紙には不要不急の内容が多くなる。なので、そもそも返事を急ぐ必要がなく、手紙が届いてから返信を投函するまでの時間も、だいぶゆるやかに過ぎていく。
改めて手紙のやりとりをしてみると、このゆるやかな時間の流れが心地よく感じられる。普段、いかに即レスに脅かされているかの反動なのかもしれないが、忘れた頃に手紙が届く感じがなかなかいい。
書く内容も、特に差し迫った要件があるわけではないので、ゆるやかなテーマになりがちだ。それだけに、日頃なんとなく感じていること、考えていることを思い出したかのように書いたり、ちょっとだけ未来のことを書いたりする。
私は日記も書いてはいるが、日記はその日の出来事を書き記すことが多いので、今考えていることや中長期的な考えを書くことはめったにない。なので、手紙を書くことが知らず知らずのうちに自分自身を振り返る機会にもなっている。
デジタルには出せない手紙の質感
もう1つ、手紙のいいところはモノであることだ。便箋や封筒にどんなものを選ぶか、筆記用具に何を選ぶか、切手はどんなデザインか。
そして何より筆跡の存在は大きい。手書きの文字が、デジタルでは伝わらないその人らしさを伝えてくれる。
こうしたモノとしての質感を味わえるのが手紙の楽しさである。だからこそ、ちょっとレトロな喫茶店でコーヒーを飲みながら、やおら便箋と万年筆を出して手紙をしたためる行為は、なかなかに良いものである。スマホではこうはいかない。
1通送るのに、切手代を入れても100円ほどで済む。ちょっとした時間ができたとき、スマホをいじるのをやめて誰かに手紙を書いてみるというのも、ひとり時間の過ごし方としてありなのではないかと感じている。