日常に息苦しさを感じたらカフェに行く ひとりになり自分と向き合う場所
うさぎは寂しすぎると死んでしまうというが(真偽のほどは分からない)、私はひとりの時間がないと死んでしまうのではないかと思っている。少なくとも気が変になってしまうだろう。別に人といるのが苦痛というわけではないが、ひとりになる時間を持たないとどこか息苦しくなってくる。
カフェは息継ぎできる場所
ちょうどイルカが水上に出て酸素を吸う時のようなイメージだ。イルカは哺乳類なので酸素を肺に取り込む必要があり、しばしば水上へ出ては空気を吸っている。そんな感じで、普段は人にまみれているけれど、時折、酸素を吸い込むためにひとりになる必要があるのだ。
そんな私にとって、ひとりになれるカフェ(喫茶店)は欠かせない存在だ。息継ぎできる場所という意味で、サードプレイスならぬ、「ブレスプレイス」とひそかに呼んでいる。飲み屋もいいけれど、日中はやっていなかったり、酔ったら困る時も多々あったりするので、気軽に入れるカフェの存在がありがたい。
仕事場や自宅、通り道など、よく行くエリアごとに、行きつけのカフェを持つことはきわめて重要だ。F1レースのピットインのように、間隙を縫ってカフェに潜り込んでは、ひとりの時間に酸素を存分に吸い込んで、また人々にいる場所へと還っていくのだ。
行きつけのカフェに共通するもの
「ブレスプレイス」として、行きつけになるカフェには共通点がある。1つはコーヒーの味が好みに合うこと。コーヒーにとりわけ深いこだわりがあるわけではないが、やはり好きな味とそうではない味がある。基本的に夏でもホットコーヒーのブラックを飲むので、この味の違いがリピートするかどうかの決め手になる。
チェーン店でも好き嫌いがある。とある有名なコーヒーチェーンにあまり足が向かないのがなぜか自分でもよく分からなかったが、ある時コーヒーの味があまり好きではないことに気づいて合点がいった。
もう1つ、行きつけになるカフェの共通点は、大抵いつでも入れることだ。そんなの当たり前だと思われるかもしれないが、特に東京都心は、場所と時間によってはすぐ入れる店を見つけるのに難儀する。なんでこんなに人がいるのか、この人たちは何をやっているのかと思うほど(自分もその1人なのだが)、カフェに人があふれて席が空いていないことなどしばしばである。
こっちは息継ぎの場所を求めているのに、それを探すのにあれこれさまようのはなんだかせつないものだ。だからこそ、要所ごとにさくっと入れるカフェを持っておくことが大事なのである。
こうした基準でふるいにかけると、人通りの多いところに面するカフェよりも、少し奥まったところや分かりにくい場所にあるカフェに行き着くことが多い。昔からある純喫茶や、古いビルをリノベーションしたヴィンテージ感のあるカフェ、あるいはアートが充実している、やたら写真集が置いてあるなど何か強いこだわりを感じさせるカフェに自然と足が向く。
カフェで己を顧みる
ひとりでカフェに来る時は、普段できないこと、やりたいと思いつつ日常に忙殺されて忘れがちなことを思い出すようにしている。なので、なるべくパソコンやスマホの類は見ない。ついメールをチェックしたり、いつもの業務に足を突っ込んでしまいがちだからだ。
その代わりに紙のノートと万年筆を取り出し、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつける。後で読み返してみると、実に他愛もないことばかり書いている。やれどうすれば通勤カバンの重さを減らせるかだの、やれ日々の生活をいかに規則正しくストイックにできるかだの、そんなことばかり書き散らかしている。
多くがあてのないつぶやきに過ぎないが、手書きにすることで普段はあまり考えないことを振り返るきっかけにはなる。こうした時間を日々確保することがなかなかできないので、カフェに入った時はモードを切り替え、半ば強制的に己を顧みるようにしている。本当は、いかに生きるべきか、人生における価値観は何かといったことをもっと考えられるとよいのだろうが、どうも他愛もないことで終わってしまいがちなのはいささか難点である。
目的のない手紙を書く
手書きといえば、手紙を書くのもいいものだ。メールやSNSなどが浸透し、手紙を出す機会がぐっと減ってしまったが、だからこそ手紙を出すのは楽しいものだ。お気に入りの便箋や封筒、葉書や切手をいくつか持ち歩いて、ふとした時にカフェで手紙をしたためる。
書く内容は大したものではないが、送り主の顔を思い浮かべ言葉を綴るのは、普段とは違うトーンになっておもしろい。いつもはくだらないことしか言わない相手に、わざとかしこまった文体で書いてみるのもまた一興だ。これもカフェならではの「遊び」である。普段は目的のない手紙を書くことなどまずやらない。カフェに来て、いつもとは違うことをしようと思えばこそ、意味のない手紙を書くのだ。
行きつけのカフェにそっと入り、ひとりでコーヒーを飲みながら、普段はなかなかできないことをするのは至福の時間である。
日常生活で人に揉まれ、人と関わり、どこか息苦しさを感じた時に、私はカフェに行く。たとえほんの15分でも、外界との交流を閉じ、己を顧みたり、誰かのことを思い出したりする大切な息継ぎのひとときになる。
それだけに、生活圏の至るところに、いつでもひとりに還れるカフェを持ちたいものである。