本好きの理想? 社会経済学者・松原隆一郎さんが1万冊収まる書庫を建てたワケ

本好きの理想? 社会経済学者・松原隆一郎さんが1万冊収まる書庫を建てたワケ(撮影:萩原美寛)
(撮影:萩原美寛)

読書家ならば誰でも一度ぐらい本の置き場所に悩んだことがあるでしょう。思う存分本が置ける自分専用の書庫を持つことは蔵書家・愛書家の悲願――と言い切るのは大げさでしょうか。

都心にほど近い阿佐谷(杉並区)に少し変わった書庫をお持ちなのは社会経済学者で放送大学教授の松原隆一郎さん(62)。書斎を兼ねた円形書棚は他に類を見ません。

松原さんはなぜこんな建物を建てたのでしょうか。またこの建物の中で、ひとりの時間をどう過しているのでしょうか。

「近代建築では他に類を見ないくらいコンクリートを使った」

阿佐谷の北側、早稲田通り沿いの角地に松原さんの書庫はあります。こぢんまりとした狭小物件。ほとんど窓のない小豆色の外観はいかにも謎めいています。

小さなドアを開けてなかに入ると、三階相当の天井から半地下の床部分までひと続きになった書棚が目に飛び込んできました。ドーム型をした天井部分を見上げていると、広さや高さ、そして時間の感覚までもが消失し、まるで本と自分が一体化したように錯覚してしまいます。

――まずはこの書庫を持つにいたった経緯を教えてください。

松原:書庫自体を最初から建てようと思っていたわけではないんです。2008年に実家を取り壊す際、長男の僕が仏壇を引き取ることになった。だったらいっそのこと、本もそこに収めてしまおうと思ったんです。当時はトータルで2万冊強所有していたんですが、1万冊まで絞ろうと。そう考えたのは2011年のことでした。

書庫でインタビューに答える松原隆一郎さん
(撮影:萩原美寛)

――「イエ」をどう継承するかが喫緊の課題だったのですね。

松原:もちろん、蔵書の管理についてはずっと頭を悩ませてきました。東大の研究室のほかに築50年ほどの木造平屋(9畳)に書棚を17架入れて置いていたんですが、当時は家にある本と書庫の本の境目が曖昧で、自宅の居間にまで本が溢れている有様でした。本がありすぎる状態を妻はずっと嫌がっていました。

――なぜこの書庫は円形なんですか。

松原:最初、僕は3万冊ぐらい入れる集密書庫(棚を閲覧するときに稼働させる閉架式書庫)にしようと考えていたんですよ。ところが、依頼した建築家・堀部安嗣さんは、四角から円筒をくり抜くという案を出してきました。堀部さんにお任せすることにして、施工を開始しました。2012年5月のことです。

――建物のスペックを教えてください。

松原:大きさは約8坪(約26.5平方m)という狭小物件。三階建て半地下のRC(鉄筋コンクリート)構造。半地下にしたのは大雨対策です。阿佐谷という地名からわかるとおり、地下階にすると冠水する可能性あるからです。

――完成したのは2013年の2月とのことですが、工事は大変だったようですね。

松原:外も内部も丸ならば、どんな施工業者でも手がけられます。しかしこの物件は直角がない、いびつな物件です。しかも内部は丸というイレギュラーな物件。担当した施工業者はよくやってくれたと思います。

(左)書庫建設のプロセスを追った『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(新潮社2014)(右)松原さんに仏壇を託した祖父の足跡をご自身でたどった『頼介伝』(苦楽堂 2018)(撮影:萩原美寛)
(左)書庫建設のプロセスを追った『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(新潮社2014)(右)松原さんに仏壇を託した祖父の足跡をご自身でたどった『頼介伝』(苦楽堂 2018)(撮影:萩原美寛)

――イレギュラーな設計ゆえのメリットはありますか。

松原:外と内部との間を埋めるため、近代建築では他に類を見ないぐらいのコンクリートを惜しみなく使いました。その分、遮音性がかなり優れていて、外に雨が降っているのも気付かなかったりしますし、保温性にも優れていたりします。

書棚よりも奥行きがある、仏壇をステップに飛び出さずに収められたことも良かった。仏壇の後ろの下部分のコンクリートをその分、えぐったことでぴったりと収まり、書棚部分同様、連続した円形を保つことができました。

――開架で角がないレイアウトは仕事をする上でどのような点が良いんですか。

松原:書棚を円形かつ開架とすることですべての本が平等となりました。背表紙がパッと眼に入ってきます。書架が四角形であったり、集密書庫であったりすると、角の本に目が行かなくなったり、手が届きにくかったりします。しかしこの書棚ならばそういったことがありません。それに脚立を使わなくてもすべての本が手に届きます。

――死蔵状態の本がないことで、普段の作業にもいい影響が出そうですね。

松原:執筆に必要な資料を連想ゲームのように書棚から抜き出し、活用しています。足らない資料があればネットで検索して論文を追加します。そうした執筆スタイルをとっていますので、すべての本の背表紙が平等に見ることができ、いつでも引き出し可能になっていないと、書棚としての意味がないんです。

日常から切り離された「集中できる場所」として

――1万冊もありますが、どこにあるのか探すのに手間がかかりませんか。

松原:セルごとにテーマを変えて分類してあり、それらがどこにあるのか、どこに入っているかは把握しています。自分の書棚ですので、公共図書館のように、連想に関係ない本が最初から排除されているので効率的です。

――専門の経済学に加え、政治、小説、新書、文庫、ノンフィクションなど様々な本が並んでいますね。こうした書庫を新築してしまうぐらいだから、本にこだわりがあるのでは?

松原:そんなことはないんですよ。専門分野である経済以外のことも考えていきたいという思いから最低限のものが必要になるということなんです。一方で必要でなくなった本は、放送大学の研究室に順次送っていったり、逆にこちらへ持ってきたりと循環させています。

松原隆一郎さんの書庫を上から見た様子
(撮影:萩原美寛)

――では次にこの書庫での居心地について聞かせてください。この空間でひとり、どのように過ごしているのですか。

松原:机のある三階の書斎で書いているか、半地下のこのスペースで本を読んでいるか、または寝ているか。ほぼその3択ですね。あとはシャワーを浴びたり、コーヒー飲んだり。日常生活からなるべく切り離して仕事に没頭しています。集中して仕事に取り組むには、この書庫はすごくいい。外とは完全に切れているし音もしませんから。

――生活っぽさを消すために心がけていることは何かありますか。

松原:掃除は人にしてもらうようにしています。自分で掃除をすると時間を取られるし集中して仕事ができなくなっちゃうんですよね 。

――狭さを感じることはありませんか。

松原:この書庫の内壁の直径は3.6メートル。なので半地下の床も同様です。一方の壁にもたれて本を読んでいると、向かい側の背表紙の文字が気になりません。居間の四辺を書棚に囲まれ圧迫感があったり寒かったりで、仕事をする気が起きなかった前の書庫に比べ、居心地という点では段違いに良くなりました。

インタビューに答える松原隆一郎さん
(撮影:萩原美寛)

――書庫にはどのぐらいのペースで来るのですか。

松原:東大にいた時は週2、3回しか来られなかったんですが、放送大学に移った現在は週5、6回来ています。放送大学には月2回行くだけでいいので。午前中、自宅の自室で仕事をして、昼ご飯を食べてから、だいたい午後1時ごろここに来ます。家族と一緒に食事をするために午後8時頃過ぎに帰ります。そうでない場合は午前1時ぐらいまで作業していることもあります。

――この書庫ができたことで、オンとオフを切り替えられるようになりましたか。

松原:書庫を作ってからは、家の共有スペースに浸出していた本はすべてこの新書庫に引き取り、家には資料ぐらいしか持ち帰らないという感じになりました。自宅は食事をしたり睡眠をとったりという、作業をしない日常を過ごす場所として使うようになりました。


「イエ」を継承する長男としての役割と、蔵書問題。その2つを同時に解決するウルトラCとも言える秘策がこの書庫の建設でした。書庫を新築することで松原さんは、作業に没頭できるかけがえのない空間を手に入れたのです。

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西牟田靖 (にしむた・やすし)

ライター。日本の旧植民地に残る日本の足あと、領土問題や引揚など硬派なテーマに取り組んでいるうちに書斎が本で埋まる。最新刊は『子どもを連れて、逃げました』(晶文社)。そのほかの作品に『僕の見た大日本帝国』『誰も国境を知らない』『本で床は抜けるのか』『わが子に会えない』『極限メシ』『中国の「爆速」成長を歩く』など多数。

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