91歳の「桜守」が、いま伝えたいこと(花と暮らす 6)

(撮影・時津剛)
(撮影・時津剛)

記念日や特別なシチュエーションだけでなく、気軽にセンスよく花を楽しみたい。そんな人が増えています。食卓に、玄関に、洗面台に、トイレに、さりげなく飾られているだけで、花は暮らしを明るく彩って豊かにしてくれます。ひとりの時間を満ち足りた、上質なひとときにするために、花とどう暮らしたらよいのか──。花や緑を愛するプロフェッショナルたちに、その極意を聞き、花と生きる彼らの人生にも迫ります。(取材・志賀佳織)

京都市右京区、広沢池のすぐ近くに位置する「植藤(うえとう)造園」は、天保3(1832)年創業の造園業者。御室御所に仕え、御室仁和寺の造園工事に携わった植木職が前身で、代々、当主は「佐野藤右衛門」を襲名することで知られています。

現在の当主は16代目佐野藤右衛門さん(91)。14代目の祖父の代から、滅びゆく桜を憂え、全国の名桜の保存に努めてきました。16代目は、イサム・ノグチの設計したパリの日本庭園や京都御所の手入れなど、内外の庭園の施工を手掛けるかたわら、桜の調査、育成、保存に力を注いできた「桜守」です。仕事を通して見えてくる日本の自然、社会、そして日本人について、お話を伺いました。

「人間も自然の一部なのを忘れている」

(撮影・時津剛)

「桜の話がどうこう言う前にな、今の日本はどうなっとんのやいう話です。自分たち人間も生き物の一部であるいうことを忘れて、欲望を満たすことしか考えてない」

のっけから、少々厳しい言葉で話を切り出した佐野さん。自然と向き合い、自然の声に耳を傾けて庭造りに携わってきた佐野さんの目には、今の世の中は、人間が真剣に命を見つめなくなった、浮ついたものに映るようです。草花をめで、育てるということは、人間も自然のおきての中で生きている存在なのだと自覚すること、というのが、御年91の桜守が若い世代に伝えたい「きほんのき」なのかもしれません。

「昭和20年の終戦を境に、日本はガラッと変わった、衣食住も変わったし、ものの見方も昔とは全部違う。そやけど、世の中のあらゆる動植物、これらは一つも変わってへんねん。人間だけが変わってしもた。普通にあったものをなくしておいて、今になって桜が滅ぶのどうのと文句を言う。人間が楽になるものが一つできあがると、自然界は二つだめになる。もう元には戻らへんのやから」

接ぎ木で増やしたソメイヨシノ

(撮影・時津剛)

佐野家が、全国の桜の保存に力を入れ始めたのは、明治7(1874)年生まれ、14代目である祖父の代からでした。日本人が大事に思う桜ですが、その桜にも寿命がある。滅びる前にその子孫は残しておかなければいけない。そんな思いからだったとのことです。接ぎ穂をもらってきたり、苗や種を集めて持ち帰ったりしては、畑で育てていきました。

15代目の父の代からは、全国の桜の記録を詳細に図譜に残してきました。何冊にも及ぶ記録のページを繰ると、一口に桜と言っても、これほどの種類があるのかと驚かされます。

「ヤマザクラやヒガンザクラ、オオシマザクラは日本の自生の桜。実生で育つので、放っておいても育つ。まず花が咲いたときに蜜が出る。それをエサにする昆虫と鳥が、花粉を媒介してくれるわけや。それがうまく受粉したときに種がなる。種を食べる鳥が、それをあちこちにばら撒(ま)いてくれるだけの話や。条件が合えば、そこで新しい生命が出てくる。昆虫や鳥が、自分たちが生きるためにやっていることが、桜を育てることも兼ねているわけや」

ところが、ソメイヨシノはそうはいきません。なぜならソメイヨシノは接ぎ木で増やしたもので、種がないからです。なので、昆虫も鳥も寄り付かないのです。

「ソメイヨシノのあれは幹やない、枝やねん。年輪もないし、そやから寿命も短い。それやのに、接ぎ木をしやすうて花があんな咲き方をするから『こらええわ』言うて人工的にバーッと増やしただけや。本来、桜は、気候風土、土地、そこの衣食住によってみな種類も咲き方も違う。そやからこそ、ものすごいきれいやねん、景色がそれぞれ違うから。ところがソメイヨシノは九州で見ても北海道で見ても同じ顔しとんねん」

「里山っちゅうもんがなくなった」

(撮影・時津剛)

そんなふうに人間の都合によって増やされたソメイヨシノは、人間が関わり続けなければ生きられない品種です。ところが、多くの人は美しい時期だけめでる。こうした人間の身勝手さにも、佐野さんはやりきれなさや憤りを覚えているのです。

「人間も自然界の一部、哺乳動物の一員やいうことを忘れとるだけやな。みな人間の都合ばかり優先して、誰も自然の都合を考えとらへん。すべて人間から見て、都合を合わさせようとする。そこが大きな間違いや」

実生(みしょう)で育つヒガンザクラやヤマザクラも、媒介してくれるものが減っているがために、その数がものすごく減っています。その原因の一つは、里山というものがなくなったことにあると佐野さんは言います。

「昔は山と街の間に、里があって、田んぼがあったり、畑があったり、林があったりしたんや。そやから、そういう媒介してくれるものはほとんど里におったんや。ところが今は、山まで市街地になって、里山っちゅうもんがなくなった。それで桜が減ったとかなんとか言うてもな。ここ5~6年は冬がなくなった。冬がなくなったいうことは、冬の営みができへんようになったいうことや。地球という一つの星の全体的な環境が変動期にきてんねやと思う、もうハッキリ分かるわな」

科学で解明できないもののほうが多い

(撮影・時津剛)

それでも自然を愛し、桜を愛し、桜の新種があると聞けば日本全国どこまででも出かけてきた佐野さん。「カラ元気やねん(笑)」とご本人は言いますが、なんのなんの、背筋はピシッと伸び、桜の木々と見て歩く足取りも、掛け値なしに20歳は若く見えます。

「桜そのものに変わりはない。桜は桜や。どこへ行ってもその土地の桜がある。山の中歩いたら、まだまだ知らんもんもいっぱいある思うねん。そやから花が咲いたら、ふらふらしてあっちこっち歩く。日本全国どこでも行く。ええ女を探しに行くんやな(笑)」

いつの時代も、常に3世代同居で暮らしてきたという佐野家。家の中にはいつも200、300年の時が流れていた、その単位でものごとを眺めてきたと言います。

「今は何でも科学的根拠がなかったらあかんけど、我々の世界は科学で解明できひんものがいっぱいある。それを科学的な考えにはめ込もうとするところに無理が出てきて、桜までもおかしくなってきとんねや。もうここまで来たら、とにかく世の中に逆ろうたろと思って(笑)。あと先あらへんからな」

【佐野藤右衛門さんプロフィル】
1928年京都生まれ。京都府立農林学校卒。代々「佐野藤右衛門」を襲名する、天保3(1832)年創業の植木職「植藤」(植藤造園)の16代目当主。桂離宮、修学院離宮の整備や、京都迎賓館の作庭のほか、パリのユネスコ日本庭園をはじめ、各国の日本庭園の施工を手がける。その功績を認められ、97年ユネスコ本部からピカソ・メダル授与。14代目から全国の桜の調査を始め、『さくら大観』『京の桜』『桜のいのち 庭のこころ』など桜に関する著書も多い。「勲五等双光旭日章」「黄綬褒章」受章

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