人生のどん底にいた私を救ってくれた梶井基次郎の『檸檬』(ひとり暮らしと文学 1)
そのとき、私は24歳だった。人生のどん底だった。
昔から、本が好きだった。文章を書く仕事に就きたいと思ったのは10歳のとき。14歳のころには「全然違う職業にしか就けなかったらどうしよう」と悩むようにもなった。
そして24歳。大学は卒業できたが、恐れていたとおり、全然違う職業にしか就けなかった。
出版社は全部落ちた。新卒を募集している編プロはなく、アルバイトでの採用が細々とあるだけだった。アルバイトで採用してもらえたとしても、実家を出て上京することを親が許してくれるとも思えなかったし、何より言い出せなかった。
やっとの思いで就職できたのはWEB系の広告代理店、営業職だった。実家から通える大阪営業所に配属され、親や親戚からは「良かったね」「運がいいね」なんて言われた。職場の人もお客さんもいい人ばかりだった。
だけど、「やりたいことと違う仕事」という一点が、じわじわと私を追い詰めていった。
営業は嫌いじゃなかった。周囲もいい人たちだった。それなのになぜ、自分の心はこんなに荒ぶってしまうのか、自分でも分からなかった。仕事を覚えるのも遅く、同期たちが遠く見えた。
やりたいことが別にあるのに、私はここで何をしているのか、毎日のように考えていた。嘘をつきながら働いているような気がして、会社にもお客さんにも申し訳なかった。家では話をしなくなった。そんな私を親が心配して、私は心配そうな親の顔を見るのがつらかった。
自分の心を支えることができず、お金を使うことで気を紛らわせた。
買ったままタグも切らず放置された服、等身大のセスナ機の模型、2メートル近くあるクリムトの複製画、どこで買ったか思い出せないハンモック。そんなモノに囲まれて、実家の部屋が足の踏み場もない状態になったとき、私は初めて自分がおかしくなったことに気がついた。
そんなとき、実家が近くにあるにもかかわらず、一人暮らしをしている友達の家に遊びに行った。
彼女は43型の大きなテレビを床に置いていた。「テレビ台ないから見るとき大変やねん」と言って、横になりながら見てそのまま寝ていた。難しいことを何も考えてなさそうな彼女を見て、なんて幸せなんだろうと思った。
その数週間後、私は不動産屋にいた。
若い男性の営業マンに「なんで一人暮らしするの? 仕事の都合?」と聞かれ、「特に理由はないんですけど……」と答えると、めちゃくちゃ怪訝な顔をされた。
いくつか提示された物件の中から川沿いに建つマンションを選び、川がよく見える部屋がいいと9階の部屋に決めた。
引越しは友達に手伝ってもらった。新居に持ってきたのは最低限の服と、実家に置き去りにできなかった本だけ。
大学受験の時にずっと読んでいた『斜陽』と『トロッコ』、仕事でやりきれない気分になったときに読む『白痴』と『破戒』、そして、初版本の『緋文字』。『黒猫』と谷崎精二の解説や、親に見つけられると困る『悪童日記』もあった。その他もろもろ、百冊くらいに絞った。
引越しの当日。手伝ってくれた友達と外でご飯を食べて、部屋に帰った。
自分だけの鍵を持って、9階までのエレベーターに乗ったときの高揚感。誰もいないしんとした廊下、部屋に入ったとたん広がる、木津川の眺め。何も考えずに引っ越したから、カーテンも照明もなかった。
部屋には本とベッドしか無い。その光景を見て、自分にとって必要なものはこれだけなのだと、すごく簡単に、はっきりと分かった気がした。その部屋には『檸檬』に登場する丸善の如く、乱雑に積み重なった本があるだけだった。
梶井基次郎の『檸檬』との出会いは、高校生のころだ。図書館で読んで感動した帰り道、ブックオフで100円で売られているのを見つけて、こんな名作が100円で売られるなんてと絶望したのを覚えている。今は、ネットの「青空文庫」で無料で読める。
『檸檬』は、こんな書き出しで始まる。
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧(お)さえつけていた。焦躁(しょうそう)と言おうか、嫌悪と言おうか――」
『檸檬』の主人公である「私」は、理由の分からない焦燥感を抱えたまま街を歩く。八百屋の店先で美しい檸檬を買ってみたところ、気持ちがスッと落ち着き、幸福感で満たされた。だが、しばらく避けていた書店・丸善に今日はどれ入ってみようと足を踏み入れると、ふたたび気鬱な感情に支配されてしまう。
好きだった画本を抜き出して乱雑に積み上げてみても暗雲は晴れないが、ふと携えていた檸檬のことを思い出し、積み重なった本のてっぺんに置いてみる。奇妙なたくらみを思いついた私は、檸檬を「爆弾」に見立て、くすぐったい気持ちを抱いたまま店を出るーー。
「え、ただのヤバい奴じゃん…」となるはずの小説なのに、多くの人が共感し、今なお読み継がれる名作となった。
この檸檬の「私」は、いまの私そのものだ。暗い部屋にひとり佇みながら、そう思った。私にとっての「檸檬」は、ひとり暮らしの部屋だったのだ。灰色の世界に現れた“レモンエロウ”の色彩のように、私の心の鬱蒼とした気持ちは晴れていった。
部屋に「檸檬」を見出したその日から、私のショパホリック(買い物依存症)はピタッとおさまった。何を買っても埋められなかった寂しさみたいなものが、ひとりで暮らすことで全て解決してしまったのだ。
毎日、会社から帰って、本を読みながらご飯を食べる。休日は目を覚ますと、そのままベッドで体を起こさないで、読みかけの本の続きを読んだ。誰にも干渉されず、心配もされず、好きなことだけをして暮らした。
そんな単純なことで、私の精神は保たれるのだと知った。それはとても不思議な経験だった。
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これは人生のどん底にいた私の、ひとり暮らしの記憶をたどるコラムです。どん底から少し浮上するために足掻いた毎日と失敗の日々に、しばしお付き合いいただけると幸いです。