伝説的プロゲーマー「ウメハラ」の意外な素顔 「基本的には競争がきらい」(インタビュー前編)
コンピューターゲームは子どもの遊びだ――。ひと昔前なら、そう考える人が多かったかもしれません。しかしいま、ゲームをプレイすることで生計を立てる「プロゲーマー」という新しい職業が生まれ、注目を集めています。さまざまなゲームの大会が世界各地で開催され、賞金をめぐってプレイヤーたちが熱い戦いを繰り広げています。
こうしたプロゲーマーの先駆者といえるのが、「ウメハラ」こと梅原大吾さん(37)。格闘ゲームの世界では伝説的な人物として知られ、数々のゲーム大会で優勝しています。その名は海外にまで轟き、アグレッシブなプレイスタイルから「The Beast(野獣)」という異名もつきました。
しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。どのような経緯でプロゲーマーになったのか。その軌跡をたどると意外な素顔が見えてきました。プロゲーマー・ウメハラの実像を2回に分けて伝えます。
【インタビュー後編】「プロゲーマーの中で一番孤独を感じている」 トップランナー「ウメハラ」
ギネスにも認定、ゲーム大会での華々しい戦歴
――ウメハラさんと言えば、対戦型の格闘ゲーム「ストリートファイター」シリーズです。はじめて「ストリートファイター」をプレイしたときのことを教えて下さい。
ウメハラ:ファミコンが好きで、子供の頃からよくゲームをしていました。11歳の時に初めてストリートファイターを見たときは衝撃でしたね。キャラクターも大きいし、音も迫力がある。キャラクターがよく動くし、しゃべる。親はゲーセンに行かせてくれませんでしたが、面白いものを見つけちゃったから、お小遣いをもらったら内緒でゲーセンに行くことが当たり前になっていました。
――「ストリートファイター」にはまってからは、頻繁にゲーム大会に参加したと聞いています。
ウメハラ:初めてちゃんとした大会に参加したのは、王子(東京都北区)の大会。12歳のときですね。数十人が参加する大会で、結果は2回戦負けでした。すごく悔しくて、それからは、大会と聞けば全て出ました。当時は、商品とか賞金というのはなかったんですけど、夢中になって出てましたね。自分の実力がどの程度なのか、確かめたかったんだと思います。
――その後は数々の大会で優勝することになりますが、どのくらい優勝したのですか?
ウメハラ:優勝回数はもう把握できていないです。3桁は超えているでしょうね。昔は大会が毎週ありましたから。2003年にEVO(世界最大級の格闘ゲーム大会)が始まったんですが、確かEVOでは最多優勝だったと思います。
――そして2010年、「世界で最も長く賞金を稼いでいるプロゲーマー」として、ギネスに認定されたんですね。
ウメハラ:ゲームの大会でイギリスに行ったついでに、表彰されました。ギネスという権威のあるものに認定されたことで、ゲームに対する世間の目が変わるといいなと思いましたね。「所詮はゲームでしょ」と言われてきたので、そうした世間の目が変わることへの期待が大きかったです。
――それだけ優勝すれば、賞金も相当稼いでいると思います。すこし聞きづらい話なのですが、あえて質問します。梅原さんは、どれくらい稼いでいるんでしょうか?
ウメハラ:これは100%聞かれるんですけど、スポンサーなどに迷惑がかかってしまうから公表できないんですよ。ただ、同年代の人たちより、もらっている報酬は多いと思います。スポンサー契約の他に賞金やプロモーション案件などもありますからね。
――ウメハラさんがここまで有名になったきっかけの1つは、やはり2004年のEVOでしょう。華麗なテクニックで大逆転し、観客たちが興奮する様子をおさめた動画が話題となりました。この試合は、ウメハラさんにどのような影響をもたらしましたか?
ウメハラ:映像に残ったということが大きいと思います。自分からすると、すごい試合だったという自覚は無いわけですよ。たまたま練習していたことが披露できて、盛り上がったな、というくらいのもので。そんなにすごいことをやったという感覚は全くなかったんです。
ただ、それから1年後、知人から「あの試合すごいことになっている」と言われて、動画サイトを見たら、再生数がすごいことになっていて。いま振り返ると、あの試合があったから、世界中でサインを求められるくらい有名になって、プロのオファーももらえるきっかけになったんだと思います。
プロを目指して雀荘で働いた
――いまでは押しも押されもせぬ日本を代表するプロゲーマーになりましたが、プロゲーマーになるまではどのような人生を送っていたのですか?
ウメハラ:生まれは青森で、小学2年生の頃、東京に引っ越してきました。小さい頃は、毎日友達と外で走り回っていましたが、ゲームに出会って、ゲーム漬けの生活に変わるわけです。高校を卒業した後は、大学には行かず実家暮らしでした。ゲームをしながらアルバイトをする生活が22歳まで続きました。アルバイトは色々やりましたね。飲食店が3件、ビラを配ったり、だんご工場で働いたり、イベント設営とか、色々でしたね。「フロム・エー」や「an」を買って、仕事を探すのが日課でした。
長く続いたアルバイトがイタリアンレストラン。同い年のスタッフが3人いて、みんな大学生だったんですが、卒業の時期にみんな辞めていきました。そのときに焦りが出て、自分もそろそろ生活を変えるべきだと思いました。そこで、プロを目指して雀荘で働き始めたんです。23歳の頃でした。
――雀荘で働いたんですね。やはり勝負事ということで、ゲームと共通点を見出したからなのでしょうか。
ウメハラ:そうですね。雀荘で働く人たちはアウトローな人が多く、自分もゲームセンターという日陰にいたので、居心地はそんなに悪くなかったです。むしろ肌に合うと思っていました。3、4年働いていたんですが、当時は本気でプロ雀士を目指していましたね。
しかし、弱肉強食の世界だから、当然負ける人もいて、目の前で落ち込んでいる人を見るのが忍びなく感じるようになりました。相手を恨んだり、嫉妬したり。勝負の世界では避けられないことかもしれないですが、常にそういう状況が目の前で繰り広げられていました。そんな中で、麻雀を打ち続けていくのは辛いと思うようになりました。プロになってもなかなか食えないことも分かって、希望を無くしちゃったんです。アルバイトや雀荘で働いてみて、1つ発見があったのは、基本的には競争が嫌いということですね。
――格闘ゲームという勝負の世界でここまで有名になったウメハラさんにしては、競争が嫌いだというのは少し意外に感じます。
ウメハラ:対抗するのが苦手で、追われるように仕事をするのは合わないということですね。飲食店にしても他の店舗がある以上、競争じゃないですか。だからスピードが求められるし、シビアな意識が求められる。当時の仕事は食べるための手段だったので、強いモチベーションを持てなかったんです。自分の性格上、夢中になっていること以外は要領よくできなくて。
――それで介護の仕事を始めたということですか。
ウメハラ:競争をさせられている場所が肌に合わなくて、介護ならどこかと対抗するということもないと思ったんです。手際の良さは求められるものの、スピード重視ではないし、何より戦場のような切迫した空気はありませんでした。両親が医療関係で働いていたので、介護職に対しての安心感というか、ポジティブなイメージがあったというのもありますね。
「自分がキリギリスということは分かっていた」
――しかし介護の仕事もつかの間、プロゲーマーの道に進むことになりました。当時プロゲーマーという職業が確立されていない中で、不安はなかったんですか?
ウメハラ:もちろん不安はありました。中学生の頃から将来への不安はずっとありましたよ。当時は世の中の仕組みをちゃんと分かっていなかったけど、それでも、そのときみんながやっていることは、将来安心して暮らすための準備だと分かっていましたから。しかし自分は、いま楽しいことを優先していて、その準備をしていない。勉強や部活もしなかったし、就職活動もしなかった。アリとキリギリスでいえば、自分はキリギリスだということは分かっていました。
でもゲームの魅力に取りつかれているから、見て見ぬふりをしていたわけですよね。まだ若いから、まだ可能性があるからって。だけど一生雀荘で働くのは無理だと悟った時に、自分の生き方が否定されたというか、敗北感がありました。そして雀荘を辞めた後、自分の選択肢の狭さみたいなものに、「ああ、やっぱりこうなるのかな」って。当たり前なんですけど、絶望しましたね。自分の生き方は、こんなにも行き詰まる結果になってしまうんだと。
そして、これ以上社会から距離を置いて生きるのは耐えられない、何とか社会の輪に混ぜてもらおうっていうのが介護職だったんですよ。だからプロゲーマーになることで、また「勝った負けた」の世界に戻されるのが嫌だったんです。なんとか介護にも慣れてきた頃だったので、かなり抵抗があって、決断するまでにかなり時間がかかりましたね。タバコは吸いませんが、例えるなら、ようやく禁煙できたと思ったところに、「一本どう」って感じでした。
「実は一時期ゲームをやめていた」
――しかし、それでもプロになる道を決断したウメハラさん。背中を押したのは何だったんですか?
ウメハラ:実は一時期ゲームをやめていたんですよ。雀荘で働いている頃から4年間くらいですね。大会には出ていたから、そんなに長い間ゲームをやめていたとは思われていないけど、以前のように毎日ゲームセンターに行ってプレイすることはなくなっていました。そんな頃に、ストフォー(ストリートファイターⅣ)がリリースされて、友達に誘われてゲーセンに行ったら、かなりブランクがあったはずなんですけど、めちゃくちゃ勝てて。
介護職を始めた頃で、仕事になじめず、自分の苦手な部分や弱点ばかりが出てくるわけです。やっぱり自信をなくしますし、打ちのめされていたんですけど、ゲームの世界では、自分は特別だってことを思い出させてもらったんですね。こんなに得意なものがあったんだって。そのときに感謝が生まれたんです。仕事は大変だけど、ゲームは趣味としてあってもいいかなって。自分を許すような気持ちになって、それでゲームを再開したんです。
ゲームを再開した当時は、「ウメハラが復活した」ということで、海外で相当な話題になったようです。その流れでEVOに出場することになり、優勝しました。こうした、復活してからEVOで優勝するという一連の動きが評価されて、マッドキャッツ(米国のビデオゲーム周辺機器メーカー)からスポンサーのオファーをもらい、日本で初めてのプロゲーマーになったんです。
(取材協力:Cooperstown Entertainment LLC)
【インタビュー後編】「プロゲーマーの中で一番孤独を感じている」 トップランナー「ウメハラ」